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日本学術会議は「全国85万人の科学者の代表機関」である 

2020年10月28日 外部ブログ記事
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アメリカの大統領選挙は、共和党と民主党との闘いにあらずしてトランプの凶暴、差別、偏狭との闘いである。一方、日本では憲法で保障された「学問の自由」を安倍・管政権による攻撃との熾烈な闘いが始まっている。「全国85万人の科学者の代表機関」である日本学術会議が推薦した委員を任命しないという暴挙との闘いである。日本学術会議(1949年設立)は、我が国の科学者の内外に対する代表機関として、科学の向上発達を図り、行政、産業及び国民生活に科学を反映浸透させることを目的に、内閣総理大臣所轄の下、独立して職務を行う「特別の機関」として内閣府に設立され、我が国の約85万人の科学者の代表として選出された210名の会員と約2,000名の連携会員で組織されている。「日本を代表する科学アカデミーとして国際学術交流を推進」している。
1.科学者コミュニティーとしての“アカデミー”にあるチャート図は、日本学術会議が日本社会に於いて果たすべき役割と使命が明らかになっている。資料2 第3期科学技術基本計画策定に向けて[基本計画特別委員会資料]平成16年10月19日日本学術会議副会長岸 輝雄

ブックレット「学問と自由と大学の危機」の中に、日本学術会議の「学術と社会常置委員会」が、2005年6月23日に出した報告文書である「現代社会における学問の自由」の冒頭には、次のように書かれている。「第二次世界大戦以前まで、学問の自由を巡る問題は、主として学問研究を担う場であった大学の自治と諸種の権力や権威との間の緊張関係として存在した。この点は、学問の自由が憲法上明記されるに至った今日においても、なお十全に実現しているとはいえないことを確認しておかなければならない。さまざまな権力や権威は、とかく人類の未来社会における共通利害よりも現存社会に支配的な価値観やそこにおけるみずからの個別的利害に従って行為しがちな存在だからである。それ故、学問を担う科学者コミュニティは、学問の自由が人類の将来社会、未来社会のために社会から付託された権利であることを自覚し、その負託に応える責務があると同時に、それ故にこそ学問の自由を侵すさまざまな権力や権威に対して今後も闘っていかなければならない使命を持っているといえよう。ただ、第二次世界大戦が終わってすでに半世紀以上経過した今日、学問の自由にかかわる問題は、権力や権威に対する緊張関係を超えて、科学者コミュニティ内部の諸問題にまで広がりをもつに至っている。」

岩波新書「憲法問題研究会編・憲法読本」の末川博氏の論考「自由」の「学問の自由」を再掲。

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?(五)学問の自由(憲法第二十三条) すでに思想および良心の自由と言諭の自由が保学問の自由障されているうえに、さらに学問の自由が保障されているのは、学問は入類の幸福と進歩に役立つことが大きいにもかかわらず、東西の歴史が示すように、学問と学問を研究する学者に対してはいつの時代にも抑圧と迫害が加えられることが多いためである。? ところで、学問とは何かといえば、いちおうスジミチをたてた体系的な知識をつくりあげることだといえるのだが、本質的におしつめていえば、真理を探求すること、つまり真実を究め真実を知り真実を伝えようとするのが学問だといってよい。したがって、学問では、いつもウソのことすなわち虚偽をしりぞけるとともに、本当のこととウソのことを見分けるために現在あるものごとに対して疑ったり批判を加えたりするのである。ところが、世の中には真実を探られたり知られたり伝えられたりしてはこまる人たちがいる。わけても、政治的、経済的その他社会的な支配力をもっている人たちとそれにつながる階層は、自分たちの支配的な地位や利益を維持したり自分たちの考えている方針や政策を行なおうとしたりするために、自分たちの支配力をつくり出している機構やそれをささえている環境や実施しようとする政策などに対する疑惑や批判をおそれ、真実を知られて伝えられることをいやがるのである。だから、古くは、秦の始皇帝が書物を集めて焼きすて学者を坑に埋めて殺したとか(焚書坑儒)、ヨーロッパでも近代的な科学を生んだ学者を牢獄につないだり焼き殺したりしたとか(ブルーノやガリレオなどの例)いうような例がたくさんあり、近くは、ドイツのナチスによって多数の学者が迫害され、また日本でも戦前と戦時中に学者や研究者で学校を追われたり投獄されたりした例は少なくない。つまり、権力を有している者は、学問が自分たちの利益になって都合のよいときにはこれを利用するけれども、学問が自分たちのカラクリを暴露したり政策を批判したりして邪魔になるときにはこれを弾圧することになるのである。そしてその弾圧の手段は、人間の理性を無視した不合理なものであり、専断的なものであるのを常とする。というのは、弾圧される学問のがわには真理に基づく理論があるのに、弾圧する梅力のがわには正しい理論がないのだから、理論に対するに理論をもってすることができないために、いきおい暴力的な手段で学問を弾圧することになるのである。 とにかく、古今東西の史実が示すように、真理を探求する学問は、権力や暴力によって弾圧され妨害される危険にさらされていることが多いのだから、憲法でもとくにその自由を保障しているのである。そして学問の自由には、(イ)研究者が真理を探求するためにはどのようにも思考することができる自由、そしてまた研究の結果としてどのような学問的な考え(いわゆる学説)をもつこともできる研究の自由と(ロ)研究の結果として得たところを対外的に表現することのできる研究発表の自由とを含んでいる。なお、研究発表の自由は、それが学校教育に結ぴつくと、教授の自由となるのである。 このような学問の自由は、国民一般の自由として保障されているのであるけれども、歴史的な発展や実際上の要請から大学における研究および教育の自由というふうに考えられているのが普通である。英語でapopdemic freedomといっているのも、そのことを表わしている。ヨーロッパにおいて大学が学問研究の場として自治団体のような性格を与えられていた歴史があり、またわが国でも大学の使命は学問の研究と教育にあるとせられているところから、そのように考えられているのである。そして学問の自由をまもるために、大学の自治ということが認められている。大学の自治にはいろいろの内容が考えられるのだが、その核心となっているのは、研究者たる教授の任免については大学とくに教授会が決定権をもっているという点にある。つまり、そのときどきの政府の意向や社会惜勢や世上の風評などで研究者の地位が左右されることになっては、学問の自由と進歩は保たれないから、外部からクチバシをいれる余地かないようにしておこうという趣旨で、大学自治が認められているのである。 ところで、学問の自由は、このようにいちおう大学を中心として考えられることが多いけれども、それは、大学関係者のためにだけ認められている自由ではない。国民すべてが、真実を知り真実を伝える自由をもっているのである。ことに、国民は、思想良心の自由や言論の自由とともに、真実を知る自由ーー裏からいえばだまされないための自由を保障されているのであるから、戦前と戦時中のように、虚偽を伝えられてだまされ真実を知ることができぬ状態におかれることは、国民のもつ学問の自由が侵害されるものといってよい。すなわち学問の自由は、国民大衆のために保障されている自由として尊重されなければならぬのであって、国民すべてが真実を知り真実を語る自由を確保しているなかでのみ、学者の学問の自由とか大学の自治とかいうことも存在し得るのである。もし社会情勢とくに大衆を支配する政治的ムードまたはふん囲気が、戦前のように狂ってきて、国民が真実を知りえないことになれれば、いかに大学人らが勇敢に抗争して理論では勝っても、学問の自由はふみにじられて実践では負けてしまうであろう。私は、そのような敗北の例をいくたびも見てきている。だから、くりかえしていうが、学問の自由の保障は国民大衆がだまされないで真実を知ることの自由の保障である。そして学問の自由をまもりぬくためには、真実をおおいかくして虚偽を充満させるような社会情勢や政治的なムードの出現を防止しなければならない。しかも、それは、あらゆる自由をまもるために、何よりも肝要なことである。(太字は管理人)
(了)
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