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平成の虚無僧一路の日記

17歳で若年寄「横山主税」 

2020年08月25日 外部ブログ記事
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「白虎隊」が、14〜16歳で“いたいけな少年”と言われるが、なんと「若年寄(家老)」の「横山主税」は17歳だった。父の「江戸詰家老 1,300石・横山主税常徳」は、元治元年(1864)の蛤御門の変の直後 病死し、倅の「常守」が17歳で 直ちに家督を相続 し「主税」を襲名した。家老の倅は17歳でも、親の跡を継いで家老になれるのだった。慶応2年(1866)、フランス皇帝ナポレオン3世のパリ万国博覧会に、幕府は使節団を派遣することになり、徳川慶喜昭武を派遣することになった。 このとき 会津藩では横山主税(20歳)と海老名季昌(24歳)の二人を随行させている。横山主税は、上海・香港・シンガポールを経て マラッカ海峡を抜け、アラビアを経て、スエズに上陸、カイロでピラミッドを見学し、フランスのマルセイユ港に上陸。そこから汽車に乗り、パリに到着している。パリでは、留学中の山川大蔵(21歳)らと会った。その後一行は、イギリス・オランダ・ドイ ツ・イタリア・ロシアなど欧州諸国を親善訪問し、大いに見聞を広め、慶応3年(1867)11月3日、横浜港に帰国した。山川大蔵は24歳で家老、横山は21歳で若年寄に復帰。 翌年(1868) 正月には鳥羽・伏見の戦いが勃発。5月、奥羽戦線の火蓋が切られ、白河城攻防の激戦が展開された。「横山主税」は、白河口総督「西郷頼母」のもとで副総督の任にあったが、白河城外稲荷山で戦死した。享年22歳。この時、牧原の一族も一人戦死している。

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当家の先祖は、初代が 90歳まで殿様の側用人として勤めたため、子供も孫も先に亡くなってまった、お家断絶のところ、殿様の特別な計らいで「家老 横山家」から養子を迎えた。ということで、当家は「横山家」の血筋でもある。

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