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「八紘一宇の塔を考える会」機関誌から「南邦和氏の講演『“魂の詩人”尹東柱』から思ったこと 

2020年07月19日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



「八紘一宇の塔を考える会」機関誌「石の証言」57号が送られてきました。その中で二編の論考が時節柄大事と考えてましたので、編集部の許諾を受けましたので、>「南邦和氏の講演『“魂の詩人”尹東柱』から思ったこと<並びに>「古関裕而と『軍歌』―時代が育てた作曲家」<を転載致します。

2015年八紘一宇の塔を考える会編著・鉱脈社発刊「新編 石の証言 八紘一宇の塔『平和の塔』の真実」表紙
同会の故児玉正夫さんは、塔に使われた基石の場所を探して、中国、台湾、韓国を訪問されました。日本中国友好協会や戦争遺跡保存ネットワーク全国大会で児玉さんからお話を伺いました。その後友誼を深めて同会の会員になっています。

? ? 南邦和氏の講演『“魂の詩人”尹東柱』から思ったこと? ? 杉尾 宏? ? 韓国の歴史と文学に造詣が深い詩人の南邦和氏の今回の講演を楽しみにしていた。期待通り、氏は尹東柱(ユンドンジュ)の出自?生い立ちから福岡刑務所での獄死までの、東柱を取り巻く社会状況や彼自身の活動を丁寧に追いながら、東柱の詞作の生成過程を簡潔に説明され、最後に、東柱は生涯を貫き通した韓国の“国民詩人”であると指摘し、講演を見事に纏められた。? ? 南氏の講演を聴きながら、私はいつしか日本統治下の朝鮮で故郷を追われた多くの朝鮮人たちの気持ちに思いをめぐらしていた。というのは、南氏の講演レジメに載っていた「また別の故郷」(1941年9月)に心を奪われたからである。この詩は、<故郷に帰って来た日の夜/私の白骨がついてきて同じ部屋に寝そべった>、から始まり、と第6連で終わる、望郷の詩である。東柱は当時在学していたソウルの延禧(ヨ二)専門学校から夏休みで故郷の北間島明東(ブッカンドミョンドン)村に帰省していたのであろう。第1行に出てくる「故郷」とはまさに明東村と思われるが、“また別の故郷”とは、どこだろうか?“また別の故郷”という表現からわかるように、第二の故郷が想定されているが、それは咸鏡北鏡(ハムギョンブクド)出身の父母および祖父母の祖国大韓帝国(韓国)であったろう。また、それは同時に朝鮮民族の一人として、東柱の祖国でもあったろう。  しかし、第一の故郷北間島明東村は1932年以降日本の傀儡国満州の領地となり、祖父母の出身地韓国は1910年以降日本の植民地朝鮮となったのであ る。二つの故郷は東柱にとってけっして居心地のよい場ではなかったろう。第一連で(ソウルから私についてきた)“私の白骨”という不気味なフレーズが使われているが、それは植民地朝鮮における東柱の在り様を象徴的に形象(イメージ)化したものであろう。 したがって、第六連に出てくる、<白骨に気取られない/美しいまた別の故郷>とは、“私の白骨”とは対極にある理想郷であり、すくなくとも大日本帝国の統治から解放された祖国であったろう。ここには東柱のキリスト教的世界観が垣間見られるようにも思われる。? ? 私は、南氏がレジメに挙げていた「たやすく書かれた詩」(1942年6月3日)にも目を奪われた。 それは東京の立教大学に入学して間もなく書かれたものであること、<六畳の部屋は、よその国>というフレーズが二度も繰り返されていることに、目が留まったからだ。宗主国日本でのはじめての生活、その時の孤独感と不安はなんとも言い難いものがあったろう。しかし、東柱は最後の連で、く灯りをつよめて 暗がりを少し押しやり/時代のようにくるであろう朝を待つ、最後の私、/私は私に小さい手を差し出し/涙と慰めを込めて握る最初の握手>と、明日を待つ決意と自己への鼓舞を詠っている。? ? この詩は延禧専門学校文科の同窓生姜処重(カンチョジュン)に宛てた東柱の日本からの手紙に記せられていた数篇の詩の中の一っで、解放後、『京郷(キャンヒャン)新聞の記者だった姜が詩人鄭芝溶(チョンジョン)の紹介文と序文を付けて『京郷新聞』(1947年2月13日付け)に載せたという。宋友恵(ソンウへ)著『空と風と星の詩人 尹東柱評伝J明石書店)。鄭芝溶は東柱が最も愛した詩人で、日本でも 「故郷」や「郷愁」の作者として知られている。東柱は鄭芝溶のやさしいことば遣いと率直な感情表出に影響を受け、鄭芝溶の留学先同志社大学一鄭芝溶は1923年〜29年同志社大学で学んだ一を自分の留学先に選ぶほど鄭芝溶に憧れていたようである。鄭芝溶は1948年1月正音社から出版された、東柱の31篇の遺稿を編んだ詩集『空と風と星と詩』にも序文を寄せている。鄭芝溶は朝鮮戦争中越北し、80年代後半までは名すら伏せられ、1955年刊の増補詩集から鄭芝溶の序文は削除された(宋友恵著前掲書)。 また、無名の尹東柱を世に出した友人姜処重は1950年代に左翼人物として逮捕され処刑されたという。 解放後尹東柱の作品に深く関わり彼を世に知らしめた二人の人物の悲劇は、南北に分けられた朝鮮の悲劇そのものを象徴しているように思われる。? ? それにしても、く故郷に故郷に帰ってきても/思 い焦がれた故郷はなくなって>で始まり、と、第6連で終わる鄭芝溶の「故郷」(『鄭芝溶詩集』1935年、金時鐘訳)は、「郷愁」と同じように故郷を追われた者たちの悲哀を詠っている。? ? 「故郷」といえば、私は、朝鮮クラッシック界の巨匠、金東振(キムドンジン)作曲、李殷相(イウンサン)作詞「カゴパ(行こう)」を思い出す。この歌曲は、金東振が平壌(ビョンヤン)の崇実(スンシル)専門学校の3年生の時、すなわち1933年に李殷相の時調(シジョ)形式の詩「カゴパ」に曲を付けたものだという。この歌曲は現在でも聴くことができる。例えば、youtubeでも聴くことができる。 この名曲を聴いていると、ゆったりとした時の流れのなか、穏やかな青い海が哀愁を漂わせながら眼前に広がってくる。 <私の故郷は南の海あの青い水が目に浮かぶ/夢にも忘れられないあの穏やかな故郷の海/今も水鳥たちは飛びかうだろうか帰りたい帰りたい/幼いころ一緒に遊んだ友ら懐かしい/どこえ行っても忘れはしない一緒に遊んだ友ら/今日はみな何をしているだろうか会いたい会いたい>というように、この詩は、朝鮮半島南部出身の者が故郷を離れ朝鮮半島の北、満州で暮らすようになって、故郷の「南の海」と友達を懐かしむ、という 構成になっている(朴燦鎬(パクチャンホ)著『韓国歌謡史1895-1945』、晶文社に時調を踏まえた日本語訳がある)。? ? 「カゴパ」はクラッシク音楽を基調にした歌曲だが、ほぼ同じ頃、1934年に失郷者の望郷の念を歌った歌謡曲「他郷(タヒャン)ぐらし」が登場した。それは金陵人(キムヌンイン)作詞、孫牧父(ソンモギン)作曲の大衆歌で、この曲 で一躍大スターとなった高福壽(コボクス)が歌った。これも youtubeで聴くことができる。そこでは、高福壽が才 ーケストラを背後に朗々と歌う貴重な映像を見ることができる。く他郷ぐらし幾とせか指折り数えりや/ふるさと離れていつしか十四年>で始まり、く他郷もなじめば 故郷となるものを/行けども来たれどもいつも他郷>(朴燦鎬訳前掲書)と第4連で終わる。哀愁をおびた曲と歌詞にいつの間にか引き 込まれ、なぜが妙にセンチメンタルになる。? ? ? 1920年代から1930年代にかけて、「故郷」をテーマにした詩や歌が朝鮮半島で流行する。それは大量の朝鮮人が日本や満州、シベリヤに渡ったことと関係する。1920年11月、朝鮮総督府は、日本米の高騰と不足という日本本国の国内問題を解決するために、産米増殖計画を開始した。それは灌漑改善40万町歩を含む総計80万町歩の土地改良事業と肥料改善?増施を目的とする農事改良事業からなる壮大な計画だった(当初計画15年、全体計画30年)。資金難と多大な農民負担のため事業は難航し、1926年には事業規模が縮小され、1931年8月にはついに土地改良事業は廃止された。それは予定より約10年も早い措置であった。それでも、1920年に1270万石であった米穀生産量は1934年には1819万石となり、 約1.4倍の増産(550万石増産)となった。また輸? 移出(ほとんどが日本への移出)量は同期間に186万石から950万石となり約5.15倍増えた(趙景達(チョキョンダル)著『植民地朝鮮と日本』岩波新書)。米穀生産量の増加よりも移出量の増加がおおよそ2倍近くも多いということは、朝鮮の農民が米を自分の食用にあてることを控え、移出にあてていたことを物語っている。? ? 灌漑事業は農民には水利組合費として跳ね返ってきた。それは当時の朝鮮の農民にとっては耐え難い負担だった。特に小作農は困窮した。地主が水利費を付加して小作料をとったからである。通常5割の小作料が6割になったという。土地所有形態別の農民の構成率をみると、次のようになる。1920年:地主3.5%、自作農19.4%、小作農37.4%、小作農39.8%、であったが、1932年:地主3.6%、自作農16.2%、自小作農25.3%,小作農52.8%? ? これをみると、土地改良事業によって自作農自小作農が小作化し、農民の大半以上が小作農になったことがわかる。小作農となった朝鮮人は海外に移住した。1930年には、日本に42万人、中国に61万人、ソ連に19万人が移住した(趙景達著前掲書)。  特に、中国への移住のうち約60%が間島への移住だったという。例えば、同地域の朝鮮人の人口は1907年に約7万人だったが1931年には約40万人に膨れ上がったという。?  何故、間島への移住者が多かったのか。それは1909年9月4日に締結された「満州及び間島に関する日清協約」によるところが大きい。この協約は満州に関しては「満州五案件に関する日清協約」として、また間島に関しては「間島協約」として別々に締結された。日本は満州における鉄道と炭鉱の利権にこだわり、前者の協約交渉に力を注いだが、後者の協約交渉では欧米諸国の干渉を恐れ清にかなり譲歩した。「間島条約」では韓国と清国との国境が明確にされ間島は韓国ではなく清国の領有とされた。また、龍井村等4地域の外国人の居留?経済活動のための開放、韓国人の開墾地での居住権の承認、清国の法律への遵守義務と清国の裁判権の承認(但し訴訟事件では日本側の領事館員の立会や覆審請求権が認められた)、韓国人の居住と土地の保護、吉林一長春間の吉長鉄道の韓国鉄道との接続の承認が条項に盛り込まれた。これによって、それまで領有権をめぐって日清間で争われた間島は清国の領有となり、大日本帝国の支配権が及ばない地域となった。韓国の保護国化(1905年11月の第二次日韓協約)と韓国併合(1910年)を通して間島を支配しようという日本の目論見は破綻したのである(森山茂徳著『日韓併合』吉川弘文館)。諸条項からわかるように、間島は、なんらかの理由で朝鮮半島から移住を余儀なくされた朝鮮人にとって、いわば避難所(シェルタ一)となっていった。そして独立運動の拠点にもなったのである。1932年以降は日本の傀儡国満州の支配圏内になったが、独立運動はけっして絶えることなく抗日パルチザンの拠点となった。? ? このような歴史を持つ間島で生まれ育った尹東柱は、朝鮮の多くの移民と同様に、ディアスポラの経験を積むことにより、どのような世界観を持つようになったのであろうか。く美しいまた別の故郷> という彼独特のフレーズに、いまもなお私は囚われている。
(この項続く)? ??
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