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平成の虚無僧一路の日記

虚無僧こそ釈迦の原点 

2020年06月14日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



(社)実践倫理宏正会の会誌『倫風』2010年10月号に、大阪大学名誉教授加地伸行氏が「時代を読む」の欄でこんなことを書いている。「輪廻転生」はインドの古くからの死生観。釈迦はそこから抜け出る(解脱)の方法を説いた。ミャンマーやタイなどに伝わった仏教は、「出家し、修行することで救いを求める。だが、中央アジアを経て中国に入った仏教は、儒教や道教と結びついた。さらに仏教は日本にはいって、独自に発展した。と。そうなのだ。日本の仏教は日本独自のものだ。90%が釈迦仏教と違う。釈迦は、「阿弥陀仏を拝め」とも、「南無阿弥陀仏」も「南無妙法蓮華経」も「般若心経」も唱えよとは言っていないのだ。前世や来世、地獄極楽も説いていない。「死後どうなるのか、自分は知らない。見てきたわけではないから言えない。そんなことに煩わされる心を捨てよ」と説いているのだ。釈迦は、寺も家も持たず、定住することなく、諸国を旅して、悩める人に、ただ「執着する心を捨てれば、身も心も軽くなる」と教えたのだ。それなのに、釈迦の後、仏教徒を自認する輩は、教団を築き、その長の座に執着し、抗争を重ねてきた。そしてインドでも中国でも仏教は廃れた。日本でも、各宗派間の抗争対立が絶えず、今や旧仏教寺院の衰退は止めがたい。虚無僧は「禅宗の一派」などと自称しているが、正当な法系は継いでいない。虚無僧の教義は、唯一「執着心を捨てる」ということだ。他と比較をしない。尺八の上手下手を競わない。衣装もまちまち。定型はない。江戸時代は「偈箱」など下げていなかった。江戸時代初期は「天蓋」も無かった。寺も墓も無い。尺八以外には無一物。肩書きも資格も無い。経典も無い。これぞ釈迦の教えに最も叶うものと、私は信じる。

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