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朝日新聞2005年8月23日「戦後60年 戦跡は語るK 陸軍戸山学校の会議室(新宿区)」の切り抜き 

2020年06月10日 外部ブログ記事
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書類を整理していたら、朝日新聞2005年8月23日「戦後60年 戦跡は語るK 陸軍戸山学校の会議室(新宿区)」の切り抜きが出てきました。朝日新聞松浦祐子記者から新宿の戦跡について問い合わせがありましたので、戸山学校将校会議室と石井十世さんをご紹介した経緯があります。

陸軍戸山学校将校会議室の写真(上部は戸山教会)

>広島部分についての文字起こし<
『 そして、原爆投下後の広島へも看護師として派遣された。面影も残らぬほど皮膚がむけてしまった人。壁から消えない子どもの影……。「本当に地獄絵でした。」 だが、戦後も日本は核の被害者を出した。 現在、陸軍病院の場所には国立国際医療研究センターが建つ。その中には米国がビキニ環礁で行った核実験で被爆をした第五福竜丸の模型が飾られている。ここ(当時は国立東京第一病院)で治療を受けた乗組員らが寄贈したものだ。 石井さんは語る。「戦争も核もお断り。その一言に尽きます」と。』
2018年12月31日 にエントリーした『軍医と共に広島へ派遣された陸軍軍医学校の看護婦石井十世さんの証言』から、同じく広島の部分だけ抜粋・転記します。
新宿平和委員会(会長長谷川順一)が2001年8月15日に発刊した「葵から菊へ〜 軍都新宿の歴史を訪ねる 2001年改訂版」(絶版)がある。昨日アップした書籍「彰古館」から、「広島原爆調査資料」と「その内容については、陸軍軍医学校が被爆直後の広島へ原爆被害調査をしたことであるが、軍医と共に派遣された軍医学校の看護婦石井十世さん(故人)の貴重な証言があったので掲載したい。

?広島へ行って(原爆患者の介護について)
 広島・長崎の原爆投下については、皆さん知らない方はいらつしやらないと思います。敗戦間際の一九四五年八月六日、広島に人類史上はじめて原爆が投下されています。この投下現場に看護婦を派遣することになり、私にもこの命令が来ました。私たちは軍医学校という特殊な所にいたため非公式に、原爆の危険性を察知しておりましたので、嫌だと一度は断りましたが行かざるを得ませんでした。そして、広島へ行きました。行って見ると、本当に地獄そのものでした。患者の方は,息も絶え絶えの人、元気でも皮膚がむけて、見る影もありませんでした。然し、薬はなく治療するすべもありません、短い期間でしたが地獄絵を見ました。私たちは軍医学校という特殊なところにいたので、情報は一般の人から比べると入っておりましたので、大本営発表を信用してはいませんでした。質問のあった戦争は勝てると思ったかの問いには、はじめは、教育の影響もあつて勝つと思っていました。然し、昭和十九年頃からは怪しくなり、空襲の激しくなつたころは、到底勝つとは思ってはいませんでした。だが、負けるなどと言うと憲兵に締まり何をされるかわかりませんので、口に出しては言えませんでした。戦争とはそういうものです。私はもう八十歳になります。戦争は嫌です。
(了)

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