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「明治節」と「昭和節」があるのに、何故「大正節」がないのだろうか 

2020年04月30日 外部ブログ記事
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今日は昭和天皇裕仁の誕生日「昭和節」なので祝日である。明治天皇睦仁の誕生日11月3日「明治節」は、憲法発布日と重なっている。
「明治節」と「昭和節」があるのに、大正天皇の誕生日1879(明治12)年8月31日「大正節」がないのだろうかと日頃から疑問に思っている。2006年10月「シニア・ナビオフ会の歴史散歩」から、明治神宮外苑「聖徳記念絵画館」を見学コースに入れた。明治天皇の誕生から崩御まで、壁画80点(日本画40・油彩画40)によって紹介されている。起工が1919(大正8)年3月5日、竣功が1926(大正15)年10月22日なので、明治神宮造営局が時の政府の意向を忖度したと考えられる。
本来であれば「皇太子御誕生」として「41 明治十二年八月十日 グラント将軍ト御對話」と「42 明治十四年九月一日 北海道巡行屯田兵御覧」の間に、油彩壁画が飾られなければならなかったのである。



 明治学院大学教授(日本政治思想史)原武史の著書「大正天皇」には下記の記述がある。
『 壮年期は比較的健康だったが、幼少期の脳病に由来して脳力の衰退に至ったというのが宮内省の公式発表。この発表のあと、新聞はそろって大正天皇の存在を忘却したかのように、摂政となった裕仁皇太子の御懿徳を称え始める。 大正時代は世界史的に見ても君主政治の危機であり、特に、ロシア革命は日本政府に衝撃を与えた。そのような時代にあって大正天皇の存在は心許なく、天皇の病気について牧野伸顕は危機感を持つ。明治天皇のように、カリスマ的権威をもって国民全体を統合する強い天皇が必要だった。この結果、大正天皇は強制的に「押込め」られた。 大正天皇(明宮、嘉仁皇太子)の生母・柳原愛子は明治天皇の側室。明宮は、ただ一人生き残った明治天皇の皇子だったが、生まれながらに病弱だった。明宮は、生母は皇后であると教えられており、幼少期は柳原愛子が実母だとは知らなかった。明宮は、里子のかたちで、中山忠能の家で育てられる。 大正天皇は二十歳で九条道孝の四女である九条節子と結婚する。このとき、青森県ではお祝いとしてソメイヨシノの記念植樹が県内各所でなされた。桜の名所である弘前公園は、このときの桜の植樹が発端。後に嘉仁皇太子が全国を回るようになるとその途上で桜や松の植樹がなされるようになる。ナショナルシンボルとしての桜のイメージは近代になってから作り出されたものであり、特に、大正天皇との関係が深い。大正天皇はこの結婚を機に、大いに健康が回復する。 大正天皇は病弱だったので学業に遅れはあったが、明治天皇のように性格を矯正されなかったともいえる。そのため、一般人に自然に声をかけるなど純粋な感情をそのまま発露させるところもある。 伊藤博文は、韓国の第二代皇帝・純宗の子・イウンの日本留学を思い立ち、それと引き替えに嘉仁皇太子の韓国行啓を発案する。嘉仁皇太子は韓国語に興味をもち、イウンが留学してくると韓国語学習に熱意を持つ。嘉仁皇太子は天皇になってからも韓国語学習を続けたばかりか侍従に時々韓国語を話していたらしい。 1900年代はまだ日本語そのものが生成途上にあり、嘉仁皇太子は東北の人びとの言葉をあまり聞き取れなかった。皇太子は、方言の矯正こそが正真正銘の地方改良運動である、と考えていたらしい。 嘉仁皇太子はさかんに行啓している。行啓を求める地方には、地方改良や開発の絶好の機会と見なす下心もあった。行啓のためだけに道路整備することには批判もあった。 大正天皇の過剰な「意思」は政界において警戒される。山本権兵衛(薩摩)は、天皇の「わがまま」を抑えるためには(長州閥であっても)山県有朋のような大物政治家が必要と認めている。西園寺内閣が崩壊すると、大正天皇は(侍従長の桂太郎によれば)松方正義に組閣を勧めた。山本に言わせれば、あやふやな天皇の意思にしたがうよりは「国家のため」を考えた方がよほど忠誠を尽くしたことになるのだろう。 西園寺のあと、結局は、桂太郎自身が首相となる。天皇の意向を固辞できずに3度目の首相就任。桂は一貫して「天皇の意思」を利用する。桂の強引さはやがて尾崎行雄らの倒閣運動である第一次憲政擁護運動につながる。大正天皇が桂に思うままに利用され政治的に未熟であることを白日の下にさらしてしまったともいえる。皇太子時代とちがって自らの意思が通用せず悩んでいたところを桂にうまく利用された面がないとはいえない。大正天皇は山県有朋をずっと嫌っていた。 大正天皇は急速に病状が悪化し、記憶喪失や幻覚に悩まされる。イウンの記憶すら失っている。死に際し、最期まで天皇の手を握りしめていたのは幼少期以来久しぶりに間近に接した生母・柳原であったという。大正天皇は47歳で死去。 昭和天皇の侍従武官長であった本庄繁は、大正天皇は皇太子時代は快活で元気だったが天皇即位後は万事窮屈でついに病気になってしまった、と述べている。裕仁皇太子は、大正天皇を反面教師とし、倫理担当教師の影響もあり、寡黙で何事があっても顔に出さない性格であった。
 そのようなわけで、そもそも本来の8月31日ではなく、暑いからという理由で天皇誕生日が10月31日だったのに、昭和になってからはそれすらなくなった。明治天皇の偉大さを讃える明治節は文化の日に、昭和天皇誕生日はみどりの日(昭和の日)になっているのに。もちろん、明仁今上陛下も、天皇誕生日。万世一系の「皇帝」に近代国家の統治を委ねることが、いかに時代錯誤で危ういことであるかを知るべきだろう。』
著者が指摘したように「明治天皇のように、カリスマ的権威をもって国民全体を統合する強い天皇が必要だった。」ので、大正天皇は強制的に歴史から消え去られたと思考される。天皇裕仁は神格化され、日中戦争、太平洋戦争へと突き進んだ。1946年1月1日「人間宣言」をするが、天皇裕仁の戦争責任は消え去ることはないだろう。
天皇徳仁が即位したので、2月23日が天皇誕生日として祝日となり、二重権威を避けるからと12月23日は祝日としなくなった。上皇明仁が崩御した場合は「平成節」となるかも知れないが、国民を「迷妄」させる「象徴天皇制の廃止」を今後も強く訴えていきたい。
(了)

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