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コロナ禍で浮かび上がる感染研、永寿病院と「七三一部隊」の数奇な縁 戦後も「元七三一部隊員」のネットワークが形成されていた 

2020年04月21日 外部ブログ記事
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友人の川口重雄さんからのメールを転載します・
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コロナ禍で浮かび上がる感染研、永寿病院と「七三一部隊」の数奇な縁 戦後も「元七三一部隊員」のネットワークが形成されていた?
文春 小池 新 : 社会, 歴史, 医療, 政治, 企業 コメント
新型コロナウイルスの感染拡大で4月7日、特別措置法に基づく緊急事態宣言が東京、大阪など7都府県に出されたが、その後も感染拡大が止まらない。この間の展開を見ていて感じるのは、「生命と健康の安全」が最優先として「国難」「挙国一致」の名の下に異論が許されない風潮が広がっていることと、政府の判断や情報の出方に不自然な点があること、そして、表面に出ない影の要素があるように思えることだ。「我が国の感染症研究の中心的役割を果たしてきた」 連日テレビの報道番組には感染症の専門家が登場している。現在あるいは過去、国立感染症研究所(感染研)に所属していた人が多い。感染研は「一貫して我が国の感染症研究の中心的役割を果たしてきた」(ホームページ)。 政府の新型コロナウイルス感染症対策専門家会議(専門家会議)も、座長は感染研の脇田隆字所長が務めているほか、鈴木基感染症疫学センター長が構成員となっている。上昌広・NPO法人「医療ガバナンス研究所」理事長は、3月18日付毎日夕刊「特集ワイド」のインタビューにて、「感染研のルーツは戦前の『伝染病研究所』であり、それを支えたのは陸軍でした。軍の特徴は『自前主義』と『情報非開示』。政府の統制も受けません。そのDNAを連綿と引き継いでいるように見える。今回の事態だって、安倍政権の統制がきかない何かが働いている可能性さえあります」と語っている。4組織の関係者が7人を占めている 専門家会議が発足した2月14日付の政府の新型コロナウイルス感染症対策本部の文書によれば、メンバー12人のうち、現在の所属が感染研になっている人が2人、東京大医科学研究所(医科研)2人、東京慈恵会医科大(慈恵医大)1人のほか、国立国際医療研究センター(医療センター)元技官の防衛医大教授と慈恵医大卒で感染研の元所員がいる。つまり4組織の関係者が7人を占めている。 医科研のホームページなどによると、感染研と医科研のルーツは同じで、1892年、北里柴三郎が設立した私立衛生会附属伝染病研究所。その後、内務省所管の国立伝染病研究所となり、さらに文部省に移管されて東京帝国大学附置伝染病研究所(伝研)となった(それに反対した北里は所長を辞任して北里研究所を設立)。 戦後の1947年、(1)感染症の基礎・応用研究、(2)抗生物質やワクチンなどの開発と品質管理――を目的に、厚生省所管の国立予防衛生研究所(予研)が設置され、約半数が移籍。これが感染研の前身だ。残った伝研は1967年、医科研に。医療センターは明治時代から東京陸軍病院、東京第一衛戍病院などで陸軍の基幹病院だった(戦後は国立東京第一病院など)。慈恵医大は森?外との「脚気論争」で有名な元海軍軍医総監・高木兼寛が創立。海軍軍医団と深いつながりがあった。人体実験で殺害された数は2000人とも3000人とも 最近、「感染研のルーツは七三一部隊」とする情報がネット上で流れている。それは正確ではないが、戦前・戦中の伝研が「七三一」と深いつながりがあったのは事実だ。1946年に撮影された石井四郎・元軍医中将 1946年に撮影された石井四郎・元軍医中将 細菌戦研究の第一人者である常石敬一・神奈川大名誉教授の著書「七三一部隊」(講談社現代新書、1995年)によれば、七三一とは1936年から敗戦の1945年まで、中国のハルビン近郊の平房に存在した関東軍防疫給水部の本部(通称「満州第七三一部隊」)のこと。陸軍軍医学校防疫研究室(防研)が母体となって作られ、創設者で長く部隊長を務めた石井四郎・軍医中将の名前から「石井部隊」とも呼ばれた。 隊員数は3000人弱でペスト、チフス、炭疽菌などの細菌兵器を研究、開発。約10年間に2000人とも3000人ともいわれる人を人体実験によって殺害したとされる。 一方で、石井の名を冠した浄水機「石井式濾水機」を開発。特許を得て1933年から陸軍で使用され、前線で成果を挙げたという。(小池汪註:濾水筒は現存)常石氏によれば、1934年から6年間、伝研所長を務めた宮川米次・東京帝大教授ら3人が防研の嘱託となって石井部隊長を支えていた。戦後の予研初代所長・小林六造慶応大教授も防研の嘱託だった。吉永春子「七三一」によれば、逆に石井の後任の2代目隊長・北野政次軍医中将は伝研の研究生だったことがあるという。「七三一のDNA」は公衆衛生や細菌・ウイルス研究へ広がった 敗戦直後、七三一部隊は解散。部隊員はひそかに帰国し、公衆衛生関係を中心にさまざまな職に就いた。1979年に出版された「資料 細菌戦」(「日韓関係を記録する会」編)の巻末には、七三一部隊の戦友会の1つ「精魂会」の名簿が載っている。その中には「国立予防(衛生)研究所」所属となっている元部隊員が少なくとも2人。ほかに中央官庁や国公立・私立大学から公立・私立病院、東京都立衛生研究所、北里研究所、自衛隊衛生学校、国立療養所、薬品会社などの記載もある。 部隊は当時の優秀な医学者や研究者を集めており、元七三一部隊員が戦後も、かつての仕事と関連した道を歩んでネットワークを形成。「七三一のDNA」が戦後の公衆衛生や細菌・ウイルス研究などの分野に広がっていたことが分かる。その中で気になるのは、元部員の所属先として「永寿病院」という名前があること。名簿では、元七三一部隊大連衛生研究所航空二課所属の倉内喜久雄院長と主事、技術員の3人が所属している。今回の新型コロナウイルスで院内感染が発生。患者、医師ら160人以上が感染し、入院患者24人が死亡した現・永寿総合病院(東京都台東区)のことだ。 同病院ホームページの「沿革」によると、1953年に「社団法人ライフ・エクステンション倶楽部」として認可され、倉内氏が会長に。1956年、東京都台東区元浅草に「ライフ・エクステンション研究所」付属の永寿病院として開院。倉内氏は創立者で初代院長。1965年、総合病院として認可され、永寿総合病院となった。 要するに、「コロナ禍」で登場する研究所と病院のいずれもが、かつて七三一と深く関係した組織だったということだ。戦後75年たったいまも…… これについて常石氏は「単なる偶然だと思う」と言う。「当時ウイルスは培養が難しく、七三一はほとんど手掛けていない。七三一の技術はそこまで達していなかった」。 わずかな例外が、北野による流行性出血熱で、日中戦争中に中国・孫呉で集団発生。「孫呉熱」と呼ばれ、日本軍のウイルス使用が疑われた。研究成果は戦後、七三一の戦争責任を免責した米軍によってひそかに独占され、朝鮮戦争で実戦使用されたともいわれる。(小池汪註:朝鮮半島に存在したとされる細菌弾弾殻は川崎市平和館の七三一部隊展で展示)石井ら七三一幹部は東京裁判でも訴追を免れた。(小池汪註:戦後しばらく石井らは東京付近で元隊員たちと逃亡生活での秘密保持のための会合を持ったとされる)(写真:多くの院内感染者を出し、換気のため窓を開けている栄寿総合病院 多くの院内感染者を出し、換気のため窓を開けている栄寿総合病院 )「ただ、それだけ石井が作った細菌研究などのネットワークが巨大だったことの表れだろう」と常石氏は話す。七三一の生体実験には戦後、東大や京大で教授などの要職に就いた人たちも関与したとされる。(小池汪註:七三一の内藤良一中佐は敗戦直前に登戸研究所へ転任し戦後、ミドリ十字を創設。帝京大学に内藤良一奨学金を設立、のちに起こる非加熱製剤事件の関係者はそれを受けたとされる)戦後75年たったいまも、細菌やウイルス、ワクチンなどの分野で何かがあれば、「七三一の亡霊」にぶつかるということだ。陸自の対特殊武器衛生隊が対応に当たった。常石氏は「感染研は研究者の集団で、実際の感染現場を経験した人はほとんどいない。その点では、世界最強の感染症対応組織といわれるアメリカのCDC(疾病対策センター)とは決定的に違う」と語る。 3月9日付毎日朝刊1面の記事によれば、日本政府で対応の指揮に当たったのは内閣官房の「事態対処・危機管理担当」チームだったが、感染症対策はもともと担当外で経験がなく混乱した。首相の信頼が最も厚いのは警察庁出身の北村滋・国家安全保障局長だという。 防衛問題に詳しい後輩記者に聞くと、自衛隊にはABC(核・生物・化学)兵器の研究部隊が2つあるが、今回、横浜港に接岸して多数の感染者を出したクルーズ船ダイヤモンド・プリンセスの対応には、そのうちの1つである陸上自衛隊の対特殊武器衛生隊が当たったという。同隊は埼玉県朝霞市にあり、東部方面衛生隊(朝霞市)や防衛医大(埼玉県所沢市)と連動。自衛隊中央病院(東京都世田谷区)とも連携して動いている。 実際にも同船には自衛隊関係の医官、看護官、薬剤官らが乗り込み、感染防護の指導などに従事したとされる。同様に乗船した厚生労働省の職員からは感染者が出たが、自衛官からはゼロ。河野太郎防衛相も会見で胸を張ったが、普段からバイオテロへの対応を想定して訓練しているはずだから、防備が万全なのは当然だろう。防御や対応策を検討する研究材料に 視点を変えて、今回の事態を細菌戦やバイオテロ攻撃を受けたと考えれば、これほど防御や対応策を検討する実践的な研究材料を与えてくれる機会はないのではないか。間違いなく、日本の自衛隊も含め、各国の軍隊はかたずをのんで見守り、「こういう場合はどうするか」などと真剣に検討し、シミュレーションを重ねているに違いない。その際の基本的な考え方は「多数を守るためには少数を切り捨てる」「情緒的でなく合理的な判断」「重要な情報は秘匿し、意図に沿った情報だけ公開する」などだろう。「人道的」などという視点は取るに足りない。軍隊とは本質的にそういうものだろう。クルーズ船の対応にもそうした「軍の論理」が感じられる。船内でどれだけ感染が広がっても、乗客を上陸させなければ陸上には広がらない。クルーズ船を見捨てるわけで、非情な仕打ちだが、それが「軍の論理」だろう。検討やシミュレーションの目的は、自軍が細菌攻撃やバイオテロを計画、実行することとは別で、建前はあくまで防衛的な意味だ。七三一部隊も、正式名称は「関東軍防疫給水部」。伝染病などから兵士を守り、安全な飲料水を確保することなどが本来の任務であり、そこから細菌戦研究と人体実験、実戦での使用に走ったとされる。 感染研敷地から100体以上の身元不明の人骨 いずれにしろ、感染研、永寿総合病院と、今回の「事件」に登場した機関が七三一部隊と点と線で結ばれているのは不気味だ。それは結局、七三一の行為をきちんと調査・検証しないまま過ごしてきた戦後日本の問題ということだろう。 ちなみに、感染研は前身の予研時代、危険な病原体を扱うため、東京・品川区から新宿区に移転する際、地元住民の強い反対に遭い、訴訟まで起こされた経緯がある。結果は勝訴して現在地に建設されたが、そこは実は七三一部隊の母体となった陸軍軍医学校の跡地という因縁の場所。さらに工事中の1989年、敷地から100体以上とされる身元不明の人骨が発見された。人体実験をされた人の遺骨ではないかとも騒がれたが、結局うやむやに終わっている。 (小池汪註:常石敬一著「骨は告発する」に陸軍軍医学校跡から出土の人骨を巡る経過報告。厚生省は隠蔽放置。生体解剖で中国から罪を問われた湯浅謙医師は面会の小池汪に研究目的を語っている)一連のコロナ禍の裏には、75年前に消えた細菌戦部隊の“幻影”がひそんでいるように見える。【参考文献】▽常石敬一「七三一部隊」(講談社現代新書)、1995年▽吉永春子「七三一」(筑摩書房)、2001年 ▽日韓関係を記録する会編「資料 細菌戦」(晩聲社)、1979年 この記事の写真(5枚)
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