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練馬区立美術館で画家・津田青楓の初の回顧展 

2020年04月04日 外部ブログ記事
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友人の川口重雄さんからのメールを転載します。
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各位    4月3日〔BCC、本日第1信〕
お早うございます。
今日の当地の日の出は5時25分、日の入りは18時5分、この間12時間40分。
コロナウイルス禍の毎日、練馬区立美術館で画家・津田青楓の初の回顧展が開かれています(2020年2月21日〜4月12日)。
恥ずかしながら、添付した『東京新聞』3月24日号夕刊の喜多孝臣さん(同館学芸員)の「自由奪う国家に背」という文章で回顧展が開かれているのを知りました。
津田青楓(1880年9月13日〜1978年8月31日、本名・亀治郎)は、1880(明治13)年京都市に生まれ、図案制作から画家を志し日露戦争に従軍、203高地の凄惨な戦いを経験、浅井忠らに学んだ後で渡仏。
帰国後に夏目漱石の本の装丁で知られ、二科会創立メンバーとなりました。
関東大震災後に京都に戻って京大教授河上肇と親交を結び、1920年代後半のプロレタリア労農運動の高まりに、画家としての社会的責任を考えて行動しました。
「研究室に於ける河上肇像」(1926年)「ブルジョワ議会と民衆」(1931年)「疾風怒濤」(1932年)など。
2月20日に小林多喜二が虐殺された1933年7月、青楓は神楽坂署に捕まり、「転向」を誓約して釈放されます。
「犠牲者」(1933年)は逮捕時に描いていたもので何とか押収を免れました。
戦後1950年に公開され、羽仁五郎の所蔵となっていました(現・東京国立近代美術館蔵)。
以後、洋画を断筆、二科会を脱会、日本画制作と良寛和尚の研究へと移って行きます。
戦後は長谷川如是閑(1875〜1969)、林要(労農派経済学者、1894〜1991)らと鎌倉・小田原で交流しました。
制作年不詳の「如是閑像」(紙本墨画淡彩)には、「ふたつなき馬つら顔/とおもえとも羽仁の/五郎と瓜二つかな」の画讃。
長谷川如是閑・羽仁五郎は細長い顔で有名でした。
同じく制作年不詳の「如是閑、青楓各自像他讃」(紙本墨画淡彩)には、「我つくる茄/子や胡瓜もながか/りし亀(亀治郎)もみちせし/むかしのゆめや」の画讃。
これらは1955年前後ではと推理します。
というのは、関東大震災の翌日1923年9月2日に中野の長谷川家の庭に避難した丸山眞男。
彼は『大阪朝日新聞』で長谷川如是閑の同僚だった丸山幹治の次男。
「長谷川のおじさん」と言って慕っていました。
彼が如是閑と鎌倉の長谷川邸で対談した記録「よき職能人たれ―鎌倉対談」が『婦人之友』1954年3月号に載っています(『丸山眞男座談』第2冊)。
その中の長谷川の発言や雑誌に載った写真など、どうも墨画淡彩の画像に雰囲気が似ています。
1923年から同志社大教授だった林要、雑誌『我等』(1919年、後に『批判』と改題)を創刊したジャーナリスト長谷川如是閑。
長谷川如是閑も1933年に治安維持法違反容疑で特高警察の取り調べを受け、翌34年『批判』を廃刊しています。
林要は1936年に同大を追われ、38年に執筆禁止。
彼らの「むかしのゆめや」のような展示でした。
果たして現在の日本社会は「むかしのゆめ」を実現できているのか。
「研究室に於ける河上肇」の実物を見るのは初めて。
会場には1929年3月6日に暗殺された山本宣治の霊柩とそれを担いで歩く「告別」「山宣デス・スケッチ」(いずれも大月源二)、「小林多喜二デスマスク」(千田是也・佐土哲二)も展示され、「日本労農党」「反軍国主義週間」「現行検閲制度反対週間」などのポスターも展示されています。

東京都からの要請で土・日は休館、したがって会期は4月10日(金)までです。
さて、初めて降りた西武池袋線中村橋駅からJR赤羽駅へ移動、まるます家へ。
50人は入る1階にはお客が11人、ぶつ刺し・イカ焼きでジャン酎を飲んで帰る時にも17人のみ。
社会が壊れて行くなあと思いながら、東京メトロ南北線で帰りました。
それでは。川口重雄拝
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