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【5年前の記事ですが再掲します】東京大空襲の米軍指令官ルメイ大将に叙勲 

2020年03月13日 外部ブログ記事
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 70年前の9日未明から米軍Bー29戦略爆撃機が東京下町方面に無差別攻撃をしました。約10万人が死者・不明者となった東京大空襲です。落語家故林家三平師匠夫人の海老名香葉子さんが上野公園清水観音堂脇に建立した「時忘れじの塔」同じく東叡山現龍院山門前の東京大空襲犠牲者慰霊碑(シニアネットのオフ会で管理人がガイドをしている時の写真) この東京大空襲を始め広島・長崎への原爆投下を指揮したカーチス・ルメイ大将(当時は少将)に対して、日本政府は1964年12月4日に勲一等旭日大綬章を授与したのです。米国航空宇宙局博物館所蔵のコピー(袖井林二郎氏提供) このことは、国際違法反であったアメリカの無差別爆撃と広島・長崎の原爆投下が裁かれなかった東京裁判にあると考えています。満州事変からのアジア侵略と東條英機などの戦争犯罪人は裁かれましたが、天皇の戦争責任や731部隊による細菌戦と人体実験は、アメリカの主導で裁かれなかった大きな欠点があったことは指摘しないわけにはいきません。 しかし、この欠点があるからと自民党稲田朋美政調会長らの「東京裁判否定論」「パール判事美化論」の歴史修正主義の立場とは全く無縁です。 当時の日本政府も国民もしかり、昭和天皇の戦争責任を追及できず、さらには敗戦の翌年一月から全国各地を行幸した天皇に万歳三唱で迎えたのです。例外は京大キャンパスだけが、インターナショナルの歌で行幸を反対しました。 Bー29による空襲は当初、中国大陸成都の飛行場から北九州の軍需工場を爆撃しました。(八幡空襲) 航続距離から東京を空襲して帰還が可能となった【注】マリアナ諸島の飛行場から飛び立たった同機は、44年11月24日に中島飛行機東京製作所(荻窪工場)、武蔵野製作所などを目標に爆撃をしました。初期の空襲は軍需工場を目標とした通常爆弾主体の高高度爆撃(高度8000m〜10000m)であったため、命中率が低く攻撃目標の損害は限定的でありました。そこで、「戦果が少ない」と判断された爆撃軍司令官のヘイウッド・S・ハンセル准将は更迭され、1945年1月、ヨーロッパ戦線でドイツに対する絨毯爆撃の実績があり、中国戦線での漢口大空襲で焼夷弾絨毯爆撃の経験もあるカーチス・ルメイ少将が、グアム島第21爆撃集団司令官に着任しました。 【注】マリアナ諸島のサイパンと日本の距離が2400kmですので航続距離が5200kmなので、十分往復できます。 作戦中、同機の収集した情報によって日本本土の防空体制の脆弱さが明らかとなり、その後の大規模な本土空襲の発端ともなったのです。 3月9日未明の高度1600?2200メートル程度の超低高度・夜間・焼夷弾攻撃という新戦術が本格的に導入された初めての空襲でした。焼夷弾空襲は耐火性の低い日本の家屋に対して高い威力を発揮し、なかでも東京大空襲(下町空襲)では死者10万人の大きな人的被害をもたらしました。東京を目標にするときは富士山を目標に飛行し、右に旋回します。サイパン飛行場で駐機しているBー29(写真から機体を数えると約300機です) 1945年3月26日に「硫黄島の戦い」で硫黄島が陥落すると、米軍は護衛戦闘機Pー51マスタング用の発進基地と、B-29が修理をできる不時着基地を確保しました。Pー51マスタングはBー29を護衛して日本軍の迎撃機と戦闘をするだけではなく、機銃とロケット弾で人家、学校を爆撃しました。一般人も学童たちも機銃照射で多くの犠牲者がでました。(八王子ランドセル地蔵)日本軍迎撃戦闘機の飛行場  

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