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雑感日記

明石高校  野球部のことなど 

2020年02月08日 外部ブログ記事
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★ 昨日は朝9時からの免許書き換えに明石の運転試験場まで行ってきた。昨年10月に高齢者講習を既に受けているので、免許書き換えの手続きはスムースに行われて、早く済んだので久しぶりにすぐ近くの母校明石高校を訪ねてみた。  私が卒業したのは昭和27年(1952)だから、70年近くも前のことである。昔の校舎は建て替えられているので、今ある校舎は新しく建てられたものである。 正面玄関だが、まだ9時半である。 ?こんな校訓だったのか、確りとは覚えていないのだが、石はそんなに旧くはないように思えた。 明石高校での思い出と言えば『野球部』である。当時はまだ、『名門明石』と言われていて、高校時代の3年間は、勉強は殆どせずに野球に熱中していた。グランドのすぐ近くまで行ってきたが、昔と違ってグランドそのものはホントに綺麗に整備されている。『己を信じろ 仲間を信じろ』 とバックネットに書かれていたが、こんな標語を見るのも、初めてのことである。 こんな優勝カップなどが沢山並んでいて。『旧い伝統のある』 その歴史が感じられた。  こんな夏の全国大会の優勝楯が飾られていたので、『昭和25年(1950)年の私たちの時のものかなものかな』と思って写真を撮ってきたのだが、第42回大会というのは調べてみたら昭和35年の私たちより10年後の後輩たちの時のものだった。この時は既に会社勤めだったが、会社を休んで応援に行ったのをよく覚えている。多分、これが明石高が甲子園に出場した最後になってるのだと思う。 私たちの高校時代は、後援会の組織も確りあったのか、お金があったのか、夏の大会前の練習は学校のグランドではなく、『明石球場』を借り切って行っていたのである。明石球場まで学校から30分も掛ったと思うが、毎日歩いて球場まで通っていた。夏の予選は、今の甲子園球場だったから、球場に関しては恵まれていたというべきか、逆に言うと学校のグランドは石ころもいっぱいで『今のように』綺麗に整備はされていなかったのである。今のグランドは、こんなに綺麗になっているから、そのレベルは相当なものである。★ 私と同期の野球部のメンバーたちも、残っているのは数人で、ピッチャーをしていた溝畑圭一郎は、10年程前の78歳の頃は、まだ野球をやっていて『78歳の4割打者』と新聞で大きく取り上げられたのである。    その時のブログにこんな風に書いている。https://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/68cdde510da4e4be7da23c1dd16fcedaはしょって、ご紹介すると昨日突然、『溝』から電話があった。久しぶり、昔の仲間、球友『溝畑圭一郎くん』からである。?日経新聞の電子版に、溝畑圭一郎の特集記事が出ているので、『それを広報しろ』と言うことなのである。?纏めて『78歳「イチロー」白球に懸ける想い』と名付けられている。?勿論チーム最年長だが4割を超える打率で、昔からよく打っていた。?確かに、今の78歳の『溝』もスゴイのだが、高校時代や神戸製鋼のエース時代のパリパリの『溝』も、スゴかったのである。明石高の2年の夏は兵庫県で優勝して、夏の甲子園も経験しているが、その予選では高校生では珍しい完全試合を達成している。 灘高を5−0で下してのパーフェクトゲームなのである。高校を卒業してからも、明石のOB連中が内外ゴムなどのチームに雇われて、準硬球の野球で兵庫県で優勝などしているが、この時も溝がピッチャーをやってくれたからである。神戸製鋼のエースとして10年ほど君臨したが、その時期ほとんど夏の後楽園の都市対抗の舞台を踏んでいる。 どこのチームが優勝しても、補強選手として選ばれて参加していたのである。★『野球はピッチャー』さえよかったら何とかなる。私たちの時代も『溝がいたから』強かったと言えるのだろう。いま兵庫県では明石商業が強い。今年の選抜にも選ばれている。実は、われわれが現役の頃は、明石高校に商業科があったのだが、その商業科が独立して『明石商業』となったのである。最近は『溝』にも会っていないが、多分私以上に元気にしているに違いないのである。★NPO ?The Good Times のホ―ムページです★会員さんのブログです。更新されるとすぐ載ります。★50万人フォロワーのいる公式ツイッターです。?★雑感日記のEnglish Version です。?

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