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歴史散策「兵器を運んだ甲武鉄道飯田町駅」レポート? 

2019年10月25日 外部ブログ記事
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甲武鉄道市街線飯田町駅が開通した頃は蒸気機関車でした。
ですので始発駅や主要駅の線路には「転車台」がありました。



飯田町駅から兵器を載せ、青山軍用停車場から兵隊を乗せた列車は「新宿駅」、「品川駅」、「横浜駅」の転車台で蒸気機関車を広島駅方向に回さなければなりません。


「新宿駅100年のあゆみ」から

そこで鉄道会社は、大崎駅から分岐した「品川西南線」をつくり、大井町駅で東海道線に接続させました。



明治5年に新橋駅から横浜駅まで開業した東海道線も、神奈川駅の先に平沼駅を新設し、横浜駅で転車をしない方法をとりました。
大正4年に神奈川駅を二代目横浜駅とし、横浜駅を桜木町駅に改称しました。









海軍の軍港横須賀の軍事的物資や人員の輸送目的で、大船駅から分岐した横須賀線が明治22年に開業しました。
鎌倉や逗子の山間部に線路を敷設したのは、鉄道施設が敵艦隊からの艦砲射撃を避けるためであったとの説もあります



軍港宇品港から軍隊を朝鮮半島や中国大陸に運ぶために、日清戦争直前に東広島駅から分岐した「宇品短絡線」が開業しました。
「赤帽」(ポーター)は、この時代に出来たようです。



以上のように、アジアへの侵略戦争をするために明治初期から鉄道、港湾などのインフラを整備した遺跡、遺構、遺物を見学して頂きました。

東京砲兵工廠跡の見学後、ある参加者が「明治38年に制式化した小銃で太平洋戦争を戦ったが、カービン自動小銃やマンドリン機関銃のアメリカやソ連には歯が立たなかったことが理解出来た。」と言われました。

太平洋戦争開戦当時、海軍軍令部総長永野修身(おさみ)の発言
『米国の主張に屈すれば亡国は必至とのことだが、戦うもまた亡国であるかも知れぬ。だが、戦わずしての亡国は魂を喪失する民族永遠の亡国であり、最後の一兵まで戦うことによってのみ死中に活を見出し得るであろう。戦ってよし勝たずとも、護国に徹した日本精神さえ残ればわれらの子孫は再起、三起するであろう。』 
靖國神社後援ドキュメント映画「私たちは忘れない」から


(続く)

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