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痩田肥利太衛門残日録その二

令和元年9月の絵 「風神・雷神 像」と「風神・雷神 図屏風」 

2019年09月03日 外部ブログ記事
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彫刻 風神・雷神像
・作者不明 (鎌倉時代) 京都妙法院三十三間堂
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屏風絵 風神・雷神図屏風(びょうぶ)
・俵屋宗達(江戸時代初期17世紀前半)京都建仁寺が所蔵
・尾形光琳(江戸時代前期18世紀初)東京国立博物館所蔵
・酒井抱一(江戸時代後期1821年頃)出光美術館所蔵
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三十三間堂には等身大の千手観音像が一千一体も祀られており、そこに、仏界の最強軍団である「二十八部衆(毘沙門天、帝釈天他)」がそれら千手観音像を守っています。
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初め、風神・雷神は荒れ狂うと衣食住を壊滅してしまうので、仏界では悪神に認定され、仏界が差し向けた二十八部衆と熾烈な戦いを繰り広げていました。そして、ついに風神・雷神は降伏し、再チャレンジの機会を与えられ、仏教の守護神となりました。
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風神と雷神は千手観音像の前列で、南側(正面左側)に風神、北側(正面右側)に雷神が配置されています。
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仏界の守護神として再雇用された風神と雷神は平静な時、適度な風を起こしや雨の神を呼んでくれ、恵みを与えてくれますので守護神の中でも一目を置かれた実力者として認められ、千手観音像の前列に配置されるという栄誉を与えられたに違いありません。
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理由はわかりませんが、三十三間堂の彫刻では風神は左、雷神は右に配置されていますが風神・雷神図屏風では雷神は左、風神は右に配置され、逆になっています。
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江戸時代初期の絵師 俵屋宗達は「風神・雷神図屏風」を描くとき、13世紀前半の北野天神縁起絵巻の菅原道真の怨霊と鎌倉時代の京都妙法院三十三間堂の風神・雷神の彫刻を参考にしたそうです。

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