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雑感日記

昭和58年(1983)50歳 単車事業再建、大庭本部長体制スタート 

2011年07月07日 外部ブログ記事
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★前年度の後半、突如として単車事業本部の企画担当を命じられ、高橋鉄郎さんにアメリカから戻って頂いて、実質的に全軍の指揮を取って頂く体制を、10月からの3ヶ月でほぼ創り上げたのだが、
57年度の実績は国内販社並びにオーストラリアを除いては、事業本部を始め海外全販売会社が赤字で、その中心であるアメリカのKMCの赤字額は55百万ドル(円換算で百億円を悠に上回る)額であったから、それが連結される川重本体としては、誠にアタマの痛い問題であったことは間違いない事実なのである。
そんな中でスタートした昭和58年度は、特に川重本体の連結対象となる直販子会社の損益は事業計画を組んだ時点で、全社黒字、そして結果としても全社黒字と言う、1年で様変わりの状況となったのである。
単車問題で本社財務が一番アタマの痛かった、海外販社の期間損益の赤字からの脱却という最優先の課題は、1年間でほぼ目途がついたのである。
7月には事業本部長として、大庭浩さん(後川崎重工業社長、故人)が着任されるのだが、単車事業部の基本システムはそれまでの1年間、青野本部長の時代に、ほぼそのレールが敷かれていて、大庭さんはそのレールの上の機関車としての役割で、大いにその力を発揮されたのである。
そんな1年間の月ごとの動きを、会社の資料や、私の日記から纏めたものである。
個人的に纏めたものではあるが、企画と言う中枢機能を担当していたので、間違いなくこの通りの動きだったのである。
 
 ★特に、当時の単車の関係者の方は、ご覧になると思いだされることも多いと思う。
当時の単車事業は一事業本部の問題ではないほど大きくて、本社の山田専務が単車再建委員会の委員長、財務の松本新取締役がその纏めで、元単車の企画室長をされていた堀川常務以下財務の全軍が関係されていた。
堀川さんが単車の企画室長時代に私も田崎さんも、企画の課長でいて、それなりに信頼もあったので、本社財務との関係はKMCのことも含めて、私と本社財務から単車に来てくれた小川君と二人で引き受けていたのである。本社財務の人たちもお目付け役として送りだした小川優君の言うことは全て信頼してくれたのである。
この事業再建のトータルシステムは、単車サイドで創り上げたものだが、当時川重が発行した社債の額の殆どをドラスチックに単車事業につぎ込んでくれた本社財務の応援がなかったら、とても単車再建などおぼつかなかったのである。技術屋さんのメンバーが殆どである単車事業でほんの数人の技術屋さんしか、こんな事実はご存じないのである。
そのほんの数人の中に、高橋鉄郎さん(のち川重副社長)と、田崎雅元さん(のち川重社長)と言う技術屋さんがおられたことは、その後の川重の経営に大いにプラスしたと私は思っている。バランスシートや資金繰りの解る技術屋さんなど本当に少ないのだが、お二人ともそれを実践で経験なさっていて、技術屋さんは興味を持ちだすとどんどん勉強するものだから、特に田崎さんのこの分野の知識は相当なものである。
最初の先生は私なのだが、多分今ではついていけないレベルにあると思う。
上の表に期間損益を黒字にするだけでなく、KMCの累損38Mドル(当時の円で100億円近い)を消去するなどの目標を私と田崎さんの間で、立案しているが、
当時川重社内で再建屋と呼ばれていた大庭さんの意識の中にあった再建は、他の受注事業部と同じ単なる期間損益の黒字化だけなので、勿論累損消去などの大それた目標など本社財務も持っていたわけではなくて、私と田崎さんで勝手に大きな目標を創ったのである。
大庭本部長からは『わしはそんなこと聞いていない』と言われたが、独立会社の再建とは期間損益の黒字化などと言う『単純なものではないのです』。と説得してしまったのである。ただ、明石の事業部とKMCは繋がっているので、アメリカを100億円改善することは、単純に言うと明石の事業部側は100億円の利益が悪化することになる。出先の田崎さん、当時川重では部長は、黒字だが、明石の事業本部長の担当部門は赤字と言う、サラリーマン社会ではなかなか難しい構図なのである。
その黒字化への改善の順序は末端の『アメリカが先』と言う方針を、大庭さんはよく受け入れて頂いたし、本社財務も大いに後押ししてくれたのである。数年後KMCの累損は見事に消去されて、大西副社長以下当時の財務の関係者や田崎さんなどとお祝いの宴席を持ったことを想い出される。
こんな事が決断できたのも、故人になってしまわれた堀川運平さんが、正規の事業計画の数値がどうであろうと、
海外販社さえちゃんとしたら、『日本の事業部の50億ぐらいの赤字はいいですよ』と私に耳打ちして下さったから、出来たのかも知れない。 
 
★大庭浩本部長は、社内でも『こわい』と言うことで定評があった方である。
大庭さんが単車に来られると言うことで、私の後輩で建機で大庭さんの番頭役だった田付さんなどはわざわざ『大庭対策メモ』を送ってくれたりした。
でも、単車の水は大庭さんに合っていたのかもしれない。他の事業部のように上の言うことは何でも聞ク様なことではなくて、、大庭さんの言われることにもNOという答えを出すこともしばしばあったのである。
ひょっとしたら、私が一番NOと言ったのかもしれない。大庭さんは、技術博士だから、理論的にちゃんと筋の通った説得が要るのである。
ただ、不機嫌になった時の顔が誠にこわいので、なかなかみんな説得するまでにはいかないのであろう。本部長のお顔はこわいので『顔を見ずに申し上げます』などと言いながら、いろいろ申し上げたが、いろんな上司に仕えたが、大庭さんが一番私の言ったことを取り上げて頂いた上司であることは間違いない。
田崎さんなども、大庭さんに言ったNOの数は、率の上では多いのだが、直接顔を合わす時間が圧倒的に私の方が多かったので・・・・
そんなことが言えたのも、東京からの単身赴任であった大庭さんの夜のお伴を高橋鉄郎さんが独りで引き受けて頂いて、根回しをして頂いたからでもある。
 
★大庭さんが単車に来られることが決まった時、大西副社長に高橋さんと呼ばれて『大庭君をよろしく』と直接頼まれたのである。
当時単車は、本社など外から見たら、とても変わった『よそ者を受け付けない』事業部のように思われていた節がある。
確かに、受注産業とは違って、自らの意思で商品を開発し、見込み生産で売れるか売れないか解りもしないモノを作り、日本だけでなく世界各国にばらまく。そこには販売会社もあって、社長がいるのだが日本に戻ってくると課長だったリ、係長だったリするのである。
そんな事業が本社からは理解できなかったのである。
大西さんには国内販社の再建時に、毎月報告に伺っていたので、不思議なぐらいよく存じ上げていた。
課長時代にカワ販の常務に突如なった時も、高橋さんが最終書類の説明に行かれて、大西さんから、『誰が本当は旗を振るのか』?と質問があって『古谷です』と答えたら、『それなら常務にしておけ』と言われて常務が実現したのだと聞いている。
大庭さんが来られて2カ月後の9月、本社部長連中を集めての懇談会の席上で、
『単車は思ったより確りしている。川重の中で将来性のある事業である。』と言って頂いた。2カ月間だったが、大庭さんが受けられた単車事業の印象は強烈であったに違いない。
間違いなくホンネだったに違いない。
この年を境に、単車事業はいろいろと苦難、も続くのだが安定への道を歩むことになるのである。
 
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