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平成の虚無僧一路の日記

アッツ島玉砕 

2019年08月16日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



瀬戸線清水口駅前の小さな洋品店。ブランド名を 「Attu」。店の主 曰く。?「太平洋戦争で、アッツ島の守備隊は全員、無事?脱出したんですよ。それにあやかって」と。?
おいオイ。無事脱出したのはキスカ島。アッツ島は 全員玉砕したのだ。でもそう信じている人に? 言っても無駄かと、そのまま否定はせずにいた。 ネットで「アッツ島の戦い」を見れば、実に詳細に 語り尽くされている。大半が、軍上層部の無能、無策、 責任隠蔽で、「全滅」よりは「玉砕」の方がかっこいい と、その後の戦意高揚に利用されることになった と。 兵隊はずっとずっと「援軍が来る」と信じていたのだ。 それが最後の最後、「全員玉砕せよ」の命令を受けて、 重症者は自決、かろうじて歩ける傷病兵も、武器も 持たされず、米軍の前に立ちはだかり、非業の死を 遂げたのだ。その幽鬼の如き形相に、米兵の中には 発狂する者もいたとか。 戦死 2,638名。負傷して意識を失い捕虜となった者 29名。うち一人は、意識が回復すると投身自殺した。 他の者も意識が回復すると、自決しようとしたという。 なんということだ。生き残った者も「戦史」から消され、 戦後は悲惨だった。 アッツ島守備隊を見捨て、見殺しにした責任を転嫁し、 それを戦意高揚に利用した軍上層部に怒りがこみあげ てくる。守備隊長「山崎保代」は、僧侶の次男だった。 名古屋の陸軍幼年学校を出ている。最後のバンザイ 突撃では真っ先先頭を駆け、銃弾に倒れた。 カナダの医学校に学んだ医師「辰口信夫」の日記も 涙が止まらない アッツ島は「熱田島」と呼ばれていた。名古屋にも縁 があったのだ。

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