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しんぶん赤旗読書欄「農学と戦争」の書評 

2019年08月11日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



昨日は中国新聞読書欄の「農学と戦争」の書評をアップしましたが、今朝のしんぶん赤旗読書欄にも書評が掲載されましたので紹介します。


>文字起こし<
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 満洲移民と農学の関係については、国内農業問題の解決策として農業経済学者が移民政策を推進したことが指摘されてきた。しかし、農学教育の実習地として満洲へ送られた学生たちがいたことはほとんど知られていない。
 ソ連との国境地帯に設置された「報国農場」での実習に1945年の東京農大専門部農業拓殖科新入生は順次渡航するが、最後の学生が満洲に投宿したのはソ連が対日参戦する8月9日の未明であった。農場入りしていた学生・教職員を含め約100名中、58名が死亡・行方不明となる。しかし、当時の学長も農業拓殖科長もその結果責任を問われることはなかった(遺族に対する報告も生還した学生たち自身が行ったという)。
 1956年にあらためて開設された農業拓殖学科の学科長に就任したのは、「報国農場」の発案者である杉野忠夫だった。杉野が京都帝大で師事した農業経済学者・橋本伝左衛門は自らの小農主義的農業経営論を戦前には「大和民族」による農業移民の優秀性の根拠とし、戦後は民主主義発達の基盤として位置付ける。こうして橋本は自らが
推進した移民政策の帰結を直視す各」となく戦後を生きた。「報国農場」にみられるような、青少年の隊組織による食糧増産活動は戦後も受け継がれていく。
 本書で印象的なのは、中国侵略という国策に加担した結果、多くの学生を死に至らしめた満州報国農場に対する大学当局と生還学生の向き合い方の差である。徹底して組織防衛をはかった大学に対し、かつての学生たちは自らの経験を記録に残し、農場跡地に「日中不再戦」を誓う慰霊の銅板を立てる。本書の著者3名のうち2名は東京農大の現役教員だが、生還学生の語りに衝撃を受けてこの問題の調査を始めたという。大学が学問の名の下におかした過ちといかに向き合うか。生還学生たち、そして彼らに触発された著者たちの実践から学ぶところは多い。

評者 伊藤淳史 京都大学准教授
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(了)

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