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森村誠一「続・悪魔の飽食」99〜100頁「終戦と同時に、防疫研究室の裏手にあった空地に、陳列されてあった多数のホルマリン漬け人体標本が、ガラス瓶ごと投げこまれた。」 

2019年07月18日 外部ブログ記事
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新宿区戸山の旧陸軍軍医学校跡地から発見された「人骨」が焼却されずに保管された。そして新宿区によって鑑定がなれ、現在は国立感染症研究所敷地内「静和」に保存されている。
「人骨の会」(軍医学校跡地から発見された人骨問題を究明する会)や「731部隊展」をはじめとした市民運動が大きく貢献したことは間違がない。
同時に、1981年7月からしんぶん赤旗に連載が始まった森村誠一著「悪魔の飽食」を忘れることはできないだろう。

管理人は、「続・悪魔の飽食」99〜100頁に記述されている下記文章を注目している。

・・・・・・・・・・
(略) 
 戦前、東京・新宿区若松町の陸軍病院、陸軍防疫研究室には多数の人体標本があった。その中には、乾燥し、ミイラになった人体や、ペストに罹った黒色死体もあった。コレラ、チフスの罹病標本も多かった。
 終戦と同時に、多数の研究者、教育隊少年隊員が動員され標本の処分が急がれた。防疫研究室の裏手にあった空地に、深さ十メートルの大きな穴が掘られ、防疫研究室に陳列されてあった多数のホルマリン漬け人体標本が、ガラス瓶ごと投げこまれた。関係者の証言によれば「人体標本の処分作業は八月十五日以降、一か月かかった」という。
 「穴の広さは十五メートル四方、深さは十メートル、三階建ての家屋がすっぽり収まりそうな深さだった。穴掘りが完成すると同時に、人体標本を入れたガラス広口瓶、パラフィン処理を施した人体組織標本が何百個も穴の底に投げこまれた・・・・・・ミイラの人体標本は投げ込まれたところを、東京帝大医学部からきた人びとによって再び拾い上げられ、帝大へ持ち帰られたと記憶している。標本の中には高橋お伝の臓器もあったが、これは警視庁が持ち去った」とは関係者の話である。
 この時の人体標本処分作業が、先の陸軍省通達「処理要領」と表裏一体をなすものであることを、読者は先刻から察知しておられよう。新宿区若松町の陸軍防疫研究室や陸軍軍医学校には、ハルビンから持ち帰った「丸太」の標本多数があったのではないか。また標本の中には、七三一で殺された白人「丸太」の臓器、生首等が含まれていたのではなかったか。
 「医事関係」とは、あるいは九州大学医学部が行なった米兵捕虜生体解剖事件の「証拠」を指しているのかもしれない。
(略)
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管理人は、赤旗編集局を通じて森村誠一氏からメッセージを頂いた。

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 森村誠一氏から「証言は私が直接、間接に聞き取ったもので、ご本人は亡くなられましたが、内容は信頼できるものです。いまのうちに戦争犯罪の確固た証拠をを堀り起こしておかないと永久に埋没されてしまうおそれがあります。事の重要性を考慮されて発掘調査が行われるよう努力されることを願うものです。」と、はそべ議長にメッセージが届けられています。
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「人骨の会」代表であった神奈川大学教授常石敬一氏は、「悪魔の飽食」を小説家の作品であると評価されまなかったので、「防疫研究所の裏手」の発掘調査も国に要求しなかった。
「陸軍防疫研究所」の北側裏手となる、都立戸山公園「多目的運動広場」付近を発掘調査することを国に求めたいと思っている。


(続く)

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