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嘉吉(かきつ)の乱(6代足利将軍の暗殺) 

2019年06月07日 外部ブログ記事
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応仁の乱と嘉吉の乱での6代将軍義教の暗殺

 ☆「応仁の乱」は、京都を騒乱にまき込んだ
 ☆原因の一つの要素は、嘉吉元年(1441年)の嘉吉の乱
 *将軍の暗殺事件が、史上最大規模の土一揆に発展し、混迷の時代となる
 ☆当時、金融業の台頭が格差社会を生む
 ☆決められない政治が混乱に拍車をかけていた
 ☆優柔不断の管領・細川持之の選択が、大混迷の時代に突き進んでいく
 ☆私の印象
 *複雑な応仁の乱も、原点から考えると理解しやすい
 *管領・細川持之の立場から見るとよく応仁の乱も理解しやすい

嘉吉の乱(かきつ)
 ☆室町時代の嘉吉元年に播磨・備前・美作の守護赤松満祐
 *室町幕府6代将軍足利義教を暗殺
 ☆領国の播磨で幕府方討伐軍に敗れて討たれるまでの一連の騒乱
 ☆乱の経過
 *宴に相伴した大名は管領細川持之、畠山持永他新義教派、他に公家らも随行
 *甲冑を着た武者たちが宴の座敷に乱入
 *赤松氏随一の剛の者安積行秀が義教の首をはねてしまった
 *居並ぶ守護大名達の多くは、狼狽して逃げ惑った
 *山名熙貴は抵抗するがその場で斬り殺された
赤松氏の隆盛
 ☆赤松氏は、後醍醐天皇の檄に応じて挙兵、鎌倉幕府打倒に大きく尽力
 *功績により守護に任じられた
 ☆恩賞への不満から、初代将軍足利尊氏に与して室町幕府創業の功臣となる
 *播磨の他に備前、美作を領し、幕府の四職の1つとなった家柄
 ☆満祐が家督を相続した時、元将軍足利義持は播磨を取り上げようとした
 *寵臣である赤松持貞に与えようとした
 *満祐が京の屋敷を焼いて領国に引き上げる事件が起こった
 *義持は激怒して満祐を討とうとするが、幕府の重臣達はこれに反対
 ☆義持の死後に、弟の義教が6代将軍になる
6代将軍義教「籤引き将軍」
 ☆義教は、有力守護大名による衆議によって政治を行っていた
 ☆長老格の死後から次第に指導力を発揮するようになった
 ☆義教は将軍の権力強化を狙う
 *斯波氏、畠山氏、山名氏、京極氏、富樫氏の家督相続に強引に介入
 *意中の者を家督に据えさせた
 *比叡山延暦寺とも対立し屈服させた
 ☆義教の政治を「万人恐怖」と書き記した書籍もある
将軍暗殺後の管領細川持之らの対応
 ☆管領細川持之を始め諸大名達は、邸へ逃げ帰ると門を閉じて引きこもる
 ☆満祐ら赤松一族はすぐに幕府軍の追手が来ると予想してた
 ☆幕府軍が押し寄せる様子はなかったため、領国に帰って抵抗することに決めた
 ☆邸に火を放つと、将軍の首を槍先に掲げ、隊列を組んで堂々と京を退去した
 ☆将軍を失った幕府
 *管領の細川持之の指導力が欠如が、幕府が機能停止に陥ってしまった
 *強力な指導力を持つ将軍の為、管領以下の幕臣が指導力を発揮する機会が無かった
 ☆将軍が殺された時に管領なのに戦いもせず、逃げ出そうとした持之の臆病ぶり
 *嘲笑され、持之が満祐と結託しているという噂まで流れた
赤松氏討伐
 ☆細川持常、赤松貞村、赤松満政の大手軍が摂津、山名持豊の侵攻する討伐軍が決定した
 ☆事実上の総大将であった侍所頭人山名持豊はなかなか京を動かなかった
 *持豊は数か月後に、京を発し但馬へ向かった
 ☆山名持豊は、但馬・播磨国境の真弓峠に攻め込み真弓峠を突破、坂本城に向かって進軍
 ☆覚悟を決めた赤松満祐は、教康や弟の則繁を城から脱出させ切腹した
守護大名の復権
 ☆山名持豊は、満祐を討ち果たしたことによって播磨守護職を与えられた
 ☆持豊は軍功として播磨一国支配を要求し、三郡も山名持豊の支配下となった
 ☆足利義満時代の明徳の乱で敗れて低下した山名氏の勢力
 *大きく拡大し、細川氏と力を競うようになる
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
出典内容の知識共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介しました
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
詳細は、出典記事・番組・画像で確認ください
出典、NHKBS『英雄たちの選択』、『WIKIPEDIA』














嘉吉(かきつ)の乱(6代足利将軍の暗殺)

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