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東大教授が解説!「令和」から浮かび上がる大伴旅人のメッセージ
2019年05月02日
テーマ:テーマ無し
東大教授が解説!「令和」から浮かび上がる大伴旅人のメッセージ
品田悦一 (現代ビジネス 2019.04.20)
新しい年号が「令和」と定まりました。
典拠の文脈を精読すると、〈権力者の横暴を許せないし、忘れることもできない〉という、おそらく政府関係者には思いも寄らなかったメッセージが読み解けてきます。
この点について私見を述べたいと思います。
なお、この文章はある新聞に投稿したものですが、まだ採否が決定しない時点で本誌(編集部注・ 短歌研究」)編集長國兼秀二氏にもお目にかけたところ、緊急掲載のご提案をいただいて寄稿するものです。
実は、別途これを読ませた友人からブログに全文転載したいとの申し出があり、本誌五月号が刊行されたらという条件で同意したのですが、友人はその五月号がもう出たものと早とちりしたらしく、四月三日の時点で全文掲載してしまいました。それを見たツイッターたちが次々に拡散した結果、巷間ではすでに相当の評判になっているようです。
あの文章は四月一日の晩に大急ぎで書いたもので、言い足りない点がいろいろあったため、七日から九日にかけて大幅な書き直しを行ないました。それが以下の決定稿です。
今後はこちらの、進化したバージョンを拡散してください。
◆「春の到来を歓んでいる」のか?
さて、「令和」の典拠として安倍総理が挙げていたのは、『万葉集』巻五「梅花歌三十二首」の序でありました。
天平二年(七三〇)正月十三日、大宰府の長官(大宰帥(そち))だった大伴旅人が大がかりな園遊の宴を主催し、集まった役人たちがそのとき詠んだ短歌をまとめるとともに、漢文の序を付したのです。その序に「于時初春令月、気淑風和」の句が確かにあります。〈折しも正月の佳い月であり、気候もすがすがしく風は穏やかだ〉というのです。
ただ、およそテキストというものは、全体の理解と部分の理解とが相互に依存しあう性質を持ちます。一句だけ切り出してもまともな解釈はできないということです。この場合のテキストは、最低限、序文の全体と上記三二首の短歌(八一五〜八四六)を含むでしょう。
三二首の直後には「員外思故郷歌両首」があり(八四七・八四八)、さらに「後追和梅花歌四首」も追加されていますから(八四九〜八五二)、これらをも含めた全体の理解が「于時初春令月、気淑風和」の理解と相互に支え合わなくてはなりません。
さらに、現代の文芸批評でいう「間テキスト性 intertextuality」の問題があります。しかじかのテキストが他のテキストと相互に参照されて、奥行きのある意味を発生させる関係に注目する概念です。
当該「梅花歌」序は種々の漢詩文を引き込んで成り立っており、「令和」の典拠とされた箇所にもさらなる典拠があります。
その一つとして、早く契沖の『万葉代匠記』が指摘したとおり、張衡「帰田賦」(『文選』)に「於是仲春令月、時和気清」の句があります。この場合、単に辞句を借用したと見て済ませるのではなく、全文との相互参照が期待されていると捉えるのが、間テキスト性の考え方です。
「帰田賦」は、官途に見切りをつけ隠遁生活に入ることを述べた作品で、末尾を「苟(いやしく)も心を物外に縦(ほしいまま)にせば、安(いづく)んぞ栄辱の如(ゆ)く所を知らんや」(心を俗世の外に放ちさえすれば、わが身の栄辱がどうなろうと知ったことではない。原漢文・以下同じ)と結びます。明らかに老荘的な脱俗の思想ですね。
俗塵に背を向けるという発想。
文中には「河の清(す)まんことを俟(ま)てども未だ期あらず」(黄河の澄むのを待ってはいるが、まだその時期は来ない)という一節もあり、これは政界の浄化がいつまでも実現しないということでしょう。
旅人も老荘の脱俗思想を受容していました。有名な「酒を讃むる歌十三首」(巻三・三三八〜三五〇)を読めば、はっきり分かります。
そういう思想的背景のもと、ろくでもない俗世に背を向ける機会として梅花の宴を企てたのでしょう。単に春の到来を歓んだわけではない。
「梅花歌」序の典拠としては、もう一つ、王羲之の「蘭亭集序」(「蘭亭序」「蘭亭叙」とも)も挙げられていて、間テキスト性の見地からはこちらのほうが重要ではないかと思います。
◆託された「時代と国境を超える共感」
この文章は書道の手本としてあまりに有名ですが、文芸作品としてもたいそう味わい深いもので、「梅花歌」序を書いた旅人も知悉(ちしつ)していただけでなく、読者にも知られていることを期待したはずなのです。
「梅花歌」序の内容は、表面上は〈良い季節になったから親しい者どうし一献傾けながら愉快な時を過ごそうではないか。そしてその心持ちを歌に表現しよう。これこそ風流というものだ〉ということに尽きます。
「蘭亭集序」の前半も、会稽郡山陰県なる蘭亭に賢者が集うて歓楽を尽くそうとするむねを述べており、ここまでは「梅花歌」序とよく似ていますが、後半には「梅花歌」序にない内容を述べます。
――ひとときの歓楽に身を任せ、満ち足りていれば、老いが迫ってくるような気がしない。とはいえこの境地にも飽きてしまうと、感情は周囲の事情に応じて移ろい、感興も消えていく。かつて楽しんだ物事もたちまち過去のものとなってしまうが、だからこそ面白いのだとも思わずにはいられない。
まして長寿も短命も造化のはからいのまま、ついには死が待っているのではないか――古人は「死生は重大事」と言った。なんと痛切なことばだろうか。彼らが折々の感興を綴ったものを読むたびに、まるで割り符を合わせたかのように私の思いと合致し、たとえようもない感動を覚える。
後世の人々が今のわれらを見るのは、ちょうど今のわれらが昔の人々を見るのと同じだろう。時代は移り、事情は異なっても、人が心に抱く感慨はつまるところ一つだ。
後世の人々もわれらの書いたものに共感してくれることだろう――。
この、後半の内容までが参照を期待されている。老荘的脱俗思想だけではありません。人はみな死を逃れられない。いずれ死ぬという宿命を背負わされた人間と人間は、ともに切ない人生を生きる者として、時代を超えて分かり合える。何よりも文芸の力がそれを保証してくれる、というのです。
王羲之を古人として慕った大伴旅人も、文芸が人間どうしの共感を繋ぐことを信じていたはずです。中国と日本ですから、時代だけでなく、国境をも越えた共感――時空を超えた共感です。
これを支えるのは、「国書」というような内向きの発想ではありません。旅人の息子で『万葉集』を完成させたと見られる大伴家持も、『万葉集』を国書だなどとはゆめゆめ思わなかった。東海の島国に暮らしていても、われらの歌、われらの文化は大陸と地続きなのだというのが彼らの意識でした。東アジアという、彼らにとっての世界を標準として物事を考え、表現していたのです。
ついでに言えば、「国書」ということばは元来は外交文書を意味していました。
日本の書物を意味するようになるのは、私の知る限りでは一八八三年(明治16)、前年設置された東京大学文学部附属古典講習科の下部組織が「国書課」「漢書課」と命名されたときです。「国書」の語はそれ以前にも一八七七年設立の大学予備門のカリキュラムに使われていますが、そこでは漢文で書かれた書物が上位に位置づけられていて、漢籍との分離が曖昧です。「国書」の用語例を洗いざらい調べたわけではありませんが、〈わが国の書物〉という物の見方が漢籍を排除して定立するのは、一八八三年と見てよいように思います。
古典講習科の設置は、帝国憲法体制の構築という国家的課題に向けた人材養成の一環でしたから、「国書」という概念は明治国家の国策を背景に生み出されたといえるでしょう。
◆「都など見たくない」という底意
梅花歌群に戻りましょう。序自体には、人生の奥深さに対する感慨は述べられていません。続く三二首の短歌も、正月(むつき)立ち春の来(きた)らばかくしこそ梅を招(を)きつつ楽しき終(を)へめ(八一五――新年を迎え春が来るたびに、こんなふうに梅を客に迎えて歓を尽くしたい)やら、梅の花今盛りなり思ふどち挿頭(かざし)にしてな今盛りなり(八二〇――梅の花は今が満開だ。気の合う者どうし髪に飾ろう)やらと、呑気な歌ばかりが並んでいるのですが、そしてそれは、旅人が大宰府の役人たちの教養の程度に配慮して、「帰田賦」や「蘭亭集序」をふまえることまでは要求しなかったからでしょうが、旅人自身は歌群の読者が先行テキストの内容をも想起するよう期待していたはずです。
序の末尾近くの一句「古今夫(そ)れ何そ異ならむ」は「蘭亭集序」の「世殊(こと)なり事異なりと雖(いへど)も、興懐する所以(ゆゑん)は其れ一(いつ)に致(いた)る」と響き合いますし、上記「員外思故郷歌両首」には、人は老いを避けられないというモ
チーフが引き込まれています。
わが盛りいたくくたちぬ雲に飛ぶ薬食(は)むともまたをちめやも(八四七――わたしの身の盛りはとうに過ぎてしまった。空飛ぶ仙薬を服用しても若返ることなどありえない)
雲に飛ぶ薬食むよは都見ば賤しきあが身またをちぬべし(八四八――空飛ぶ仙薬を服用するより、都を見ればこの老いぼれもまた若返るに違いない)
第二首に注意しましょう。
帰京しても若返るはずなどないことは分かりきっていますから、「都見ば……またをちぬべし」は明らかに逆説です。「都見ば」という仮定自体がアイロニーなのであり、都など見たくないという底意を読み取るよう読者に求めているのです。
なぜ見たくないのでしょうか。考えられる答えの一つは、待つ人がいないからというものでしょう。じっさい旅人は、大宰府に同伴した妻を着任後まもなく亡くしています。
帰任が迫ったころには、都なる荒れたる家にひとり寝(ね)ば旅にまさりて苦しかるべし(巻三・四四〇――都にある荒れた家で独り寝をするのは、旅に出ているのより辛いに違いない)と詠じ、帰京後にも、人もなき空しき家は草枕旅にまさりて苦しかりけり(巻三・四五一――あの人がいない空っぽの家は、旅よりも辛い場所なのであった)と慨嘆していますから、都での孤独な生活を望まなかったというのは、当人の心境としては十分認められる想定でしょう。しかし、それならば〈待つ人もいない都へなど今さら帰ってもしかたない〉と歌えばいいものを、なぜ〈都に帰れば若返るに違いない〉などと屈折した物言いをするのでしょうか。
文芸という見地から言っても、亡妻というモチーフは仏教的無常観となら親和性を持つけれど、梅花歌群の背景にあるような老荘的脱俗思想とは結びつきにくいように思います。
そこで浮上するのがもう一つの答えです――「帰田賦」にも述べられていたような、政界の腐敗に対する嫌悪。
都はどうなっていたか。皇親勢力の重鎮として旅人が深い信頼を寄せていた左大臣、長屋王――平城京内の邸宅跡から大量の木簡が発見されたことでも有名な人物――が、天平元年つまり梅花宴の前年に、藤原四子(武智麻呂(むちまろ)・房前(ふささき)・宇合(うまかい)・麻呂)の画策で濡れ衣を着せられ、聖武天皇の皇太子を呪い殺した廉(かど)で処刑されるという、いともショッキングな事件が持ち上がったのでした。
◆長屋王事件の痕跡
この事件は後に冤罪と判明するのですが、当時から陰謀が囁かれていたでしょう。旅人もそう強く疑ったに違いありませんが、遠い大宰府にあって切歯扼腕(せっしやくわん)するよりほかなすすべがなかった。
そればかりではありません。皇太子の死と前後して、聖武天皇にはもう一人の皇子が誕生していました。県犬養広刀自(あがたのいぬかいのひろとじ)が産んだ安積(あさか)親王です。
母方の血筋が藤原でない親王がゆくゆく天皇になることを恐れた藤原一族は、亡き皇太子の母であるという口実で夫人(ぶにん)藤原安宿媛(あすかべひめ)の立后を画策し、まんまと成功します。光明皇后です。
光明皇后がまた男子を産めば安積親王より上位にランクされると踏んでの策謀であり、皇后になれるのは皇族の女性だけという古くからの慣習を踏みにじっての横車でした。これが八月のこと。言い遅れましたが、そもそも生まれたての嬰児を皇太子にしたこと自体、藤原一族のごり押しにほかなりませんでした。
『万葉集』の巻五は作歌年月日順に歌が配列されているのですが、梅花歌群の少し前、天平元年のところには、旅人が藤原房前に「梧桐日本琴(ごとうのやまとごと)」を贈ったときの書簡と歌が載っています(八一〇〜八一二)。事件は二月、贈答は十月から十一月ですから、長屋王事件に続いて光明立后までが既成事実化した時点で旅人のほうから接触を図ったのです。
表面上は〈すばらしい琴を入手しました。その精が夢に現れて、風雅を解する人の膝を枕にしたいと申します。貴殿こそふさわしいと存じまして、このとおり進呈いたします〉〈貴公ご愛用の品を下さるのですな。決して粗略には扱いますまい〉と勿体ぶったやりとりをしているのですが、実は〈ぜんぶ君たちの仕業と察しはついているが、あえてその件には触れないよ〉〈黙っていてくれるつもりらしいね。贈り物はありがたく頂戴しておきましょう〉と、きわどい腹の探り合いを試みた――あるいは、とても太刀打ちできないと観念して膝を屈したとの見方もありえるかと思いますが、とにかく、巻五には長屋王事件の痕跡が書き込まれているのです。
巻五だけではありません。巻三所収の大宰少弐(次席次官)小野老(おゆ)の作、あをによし寧楽(なら)の都は咲く花のにほふが如く今盛りなり(三二八)は、何かの用事でしばらく平城京に滞在し、大宰府に帰還したときの歌でしょうが、『続日本紀』によれば老は天平元年三月、つまり長屋王事件の翌月に従五位上に昇叙されていますから、たぶんこのときは都にいて、聖武天皇から直接位を授かったのでしょう。すると、大宰府に帰った老は、光明立后の気配があることなど、事件後の都の動向を旅人らに語ったと考えられる――そういうことが行間に読み取れるのです。
◆秘められた「権力者への敵愾心」
また巻四には、長屋王の娘である賀茂女王と大宰府の官人だった大伴三依(みより)との交情が語られていて、三依は大宰府に向かう前に荒れ狂っていた(五五六)。事件に憤慨したのではないでしょうか。さらに巻六。歌を年月日順に配列する中で天平元年に空白を設け、直前に、長屋王の嫡子で父とともに自害させられた、膳王(かしわでのおおきみ)の作を配しています(九五四)。
これらはみな、読者に長屋王事件を喚起する仕掛けに相違ありません。偶然の符合にしては出来すぎている。巻六では膳王の歌の直後から旅人ら大宰府関係者の歌ばかりが続きますから、テキストとしての『万葉集』は、旅人が長屋王事件のとき遠い大宰府にいたことをも読者に印象づけようとしていることになります。
もう一度梅花歌群に戻りましょう。
「都見ば賤しきあが身またをちぬべし」のアイロニーは、長屋王事件を機に全権力を掌握した藤原一族に向けられていると見て間違いないでしょう。
あいつらは都をさんざん蹂躙(じゅうりん)したあげく、帰りたくもない場所に変えてしまった。王羲之にとって私が後世の人であるように、今の私にとっても後世の人に当たる人々があるだろう。その人々に訴えたい。どうか私の無念をこの歌群の行間から読み取って欲しい。
長屋王を亡き者にしてまでやりたい放題を重ねる彼らの所業が私にはどうしても許せない。権力を笠に着た者どものあの横暴は、許せないどころか、片時も忘れることができない。だが、もはやどうしようもない。年老いた私にできることといえば、梅を愛でながらしばし俗塵を離れることくらいなのだ……。
これが、令和の代の人々に向けて発せられた大伴旅人のメッセージなのです。
テキスト全体の底に権力者への憎悪と敵愾心(てきがいしん)が潜められている。断わっておきますが、一部の字句を切り出しても全体が付いて回ります。つまり「令和」の文字面は、テキスト全体を背負うことで安倍総理たちを痛烈に皮肉っている格好です。
もう一つ断わっておきますが、「命名者にそんな意図はない」という言い分は通りません。テキストというものはその性質上、作成者の意図しなかった情報を発生させることがままあるからです。
安倍総理ら政府関係者は次の三点を認識すべきでしょう。
一つは、新しい年号「令和」とともに〈権力者の横暴を許さないし、忘れない〉というメッセージの飛び交う時代が幕を開け、自分たちが日々このメッセージを突き付けられるはめになったこと。
二つめは、この運動は『万葉集』がこの世に存在する限り決して収まらないこと。
もう一つは、よりによってこんなテキストを新年号の典拠に選んでしまった自分たちはなんとも迂闊(うかつ)であったということです (「迂闊」が読めないと困るのでルビを振りました)。
もう一点、総理の談話に、『万葉集』には「天皇や皇族・貴族だけでなく、防人や農民まで、幅広い階層の人々が詠んだ歌」が収められているとの一節がありました。
この見方はなるほど三十年前までは日本社会の通念でしたが、今こんなことを本気で信じている人は、少なくとも専門家のあいだには一人もおりません。高校の国語教科書もこうした記述を避けている。かく言う私が批判しつづけたことが学界や教育界の受け入れるところとなったのです。
安倍総理――むしろ側近の人々――は、『万葉集』を語るにはあまりに不勉強だと思います。私の書いたものをすべて読めとは言いませんが、左記の文章はたった一二ページですから、ぜひお目通しいただきたいものです。
東京大学教養学部主催の「高校生のための金曜特別講座」で語った内容ですから、高校生なみの学力さえあればたぶん理解できるだろうと思います。
* * *
【記】 品田悦一「万葉集はこれまでどう読まれてきたか、これからどう読まれていくだろうか。」(東京大学教養学部編『知のフィールドガイド 分断された時代を生きる』二〇一七年八月、白水社)
〈追記〉 安倍談話以来、「品田の本を読め」という声が世間に飛び交った結果、長らく品切れ状態だった旧著『万葉集の発明』(二〇〇一年、新曜社)の新装版刊行が決定した。
〈補記〉 「帰田賦」「蘭亭集序」を引き込んでの読みには先行研究があるが、この戦闘的な文章が累を及ぼすことを危惧して、あえて私ひとりが矢面に立つ形にした。
諸先学におかれては筆者の意を察して諒恕されたい。
(了)
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