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「人骨の会」3・1独立運動100年人骨問題30年お花見ウオーク 

2019年04月01日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



人骨の会(軍医学校跡地から発見された人骨問題を究明する会:代表常石敬一)主催の3月31日「2019年連続フィールドワーク第二回お花見ウオーク 3・1独立運動100年人骨問題30年」に参加しました。
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早稲田・戸山・大久保
新宿空襲の被害の跡を巡り、陸軍施設が集中していた戸山公園箱根山地区周辺でお花見を頼みつつ、戦争の記憶を辿り、コリアタウンをそぞろ歩いたあと、高麗博物館を見学

コース案内(1)
空襲の爪痕と陸軍軍医学校の周辺
スタート:東京メトロ東西線早稲田駅改札口
戦災者供養観音
早稲田大学理工学研究所喜久井町キャンパス内は、当時、早稲田通りまで防空壕が通じていた。1945(昭和20)年5月25日の山手空襲の際、新宿も多大な被害を受けたが、ここに避難した学生、近隣住民300余名が壕内で煙に巻き込まれ亡くなった。これを悼み、戦後観音像が建てられた。





喜久井町観音
喜久井町感通寺境内には、やはり5月25日の空襲の惨状を忘れないために建てられた観音像がある。また、入口の石碑には空襲の爪痕が残る。



国立国際医療研究センター
1929(昭和4)年、同地に陸軍東京第一衛戊病院設立。38年、臨時東京陸軍第一病院と改称。敗戦とともに陸軍が消滅すると厚生省に移管し、国立東京第一病院に。74年国立病院医療センター、93年国立国際医療センターを経て、2010年独立行政法人化に伴い、国立国際医療研究センターと改称。
院内1階の資料展示室に、軍医学校長を務めた森鴎外の机、第五福竜丸模型、軍医学校の資料などが展示されている。

財務省若松住宅児童遊園
元軍医学校看護師・石井十世は、軍医学校診療部(済生会病院)の跡地に石井自身も手伝って人体標本類を破棄した、と証言。2012年から発掘調査が行われた。人骨は見つからなかったが、石井証言にある整形外科診療部や技工室と見られる建物基礎の遺構や6つの土坑が見つかり、大量の義手・義足、模り用の石膏、試験管、薬瓶、アンプル、フイルムなどが発見された。現場から江戸時代の遺跡が出てあり、都の遺跡発掘調査も行われた。


門衛所と地下道入口
正門跡から数十歩北に下ると、門衛所跡と診療部に入る辺りに守衛所があった。その近くにある謎の石柱には89年に人骨が発見される直前まで「陸軍」「医校会」の文字があつた。また石垣には地下道入口と見られる鉄扉があったが、これも94年以降撤去された。

国立感染症研究所
納骨施設
89年7月、国立予防衛生研究所(現感染研)建設現場から100体を超す人骨が発見された。厚労省は陸軍軍医学校の医学標本であることを認め、02年3月、敷地内に、御影石造りの納骨施設を建立した。
天皇行幸記念碑
29年に新築移転したとき、昭和天皇が行幸した。衛生学教室を案内した学教室を案内した小泉親彦は、翌年記念碑を建てようとしたが、碑文の揮竜を託した第4代軍医学校校長石黒忠恵の体調思わしくなく、昭和11年に建立された。

説明する人骨の会事務局長鳥井靖さん


陸軍軍医学校
1929年、麹町にあった陸軍軍医学校が同地に新築移転し、天皇が行幸(訪問・見学)する。天皇を案内した小泉親彦は、後に校長、陸軍軍医総監、陸軍省医務局長を歴任し、厚生省の設立に尽力し、敗戦時は厚生大臣と、常に731部隊・石井四郎の後ろ盾となるが、最後は連合国軍の取調べを拒否し、自決する。
1933年、西北側の近衛騎兵連隊の土地を譲り受け、本部地下室の防疫部が拡張される形で防疫研究室がつくられる。これが、悪名高き石井機関の中枢機関として、731部隊等の防疫給水部と東大・京大の医学アカデミーとの仲立ちをするのである。

管理人が作図した陸軍軍医学校図


コース案内 (2)
陸軍の学校施設が集中していた戸山公園箱根山地区
感染研から西に向かうと、旧陸軍医学校防疫研究室(防研)と旧陸軍姜境界となる道路に出る。

戸山ハイツ・都立戸山公園箱根山地区
陸軍軍医学校防疫研究室跡
北側の運動場に防研があり、731部隊の中枢機関としての役割を果たしていた。西側に厚労省戸山5号宿舎が建っていた。2010年に解体、翌年2月から人骨発掘調査が行われた。調査は6月に終了。人骨は発見されなかったが、防研内の建物のコンクリート基礎などの遺構や軍用食器などの遺物が発見された。

陸軍戸山学校
南側の扇状地は、陸軍楽隊の野外演奏場跡。近くに戸山学校碑がある。そこから箱根山をめぐると、戸山教会があるが、この建物の基礎部分は、陸軍戸山学校将校集会所の跡といわれる。
戸山ハイツの広大なエリアには、士官・下士官の教育機関、陸軍戸山学校の運動揚などがあり、幼年学校と共用していた。

陸軍幼年学校跡
 都立戸山公園箱根山地区の明治通り側の崖上には、東京陸軍幼年学校があった。陸軍エリートの養成機関で、卒業すると士官学校へ上がった。

コース案内(3)
共生の街・大久保
大久保通りから職安通り(大久保・百人町界隈)

コリアンタウン
新宿区は、東京でも有数の外国人居住地区。人口の1害似上が外国人で、そのうち在日韓国・朝鮮人は半数近く。とりわけ大久保地区には外国人が密集し、コミュニティを形成している。1980年代ニューカマーが急増し、今や韓流のメッカとなっている。

大久保小学校
鉄炮組百人隊(百人町の由来)
徳川家康は、江戸幕府の西の守りのために伊賀組などの百人の鉄砲隊をこの地に住まわせた。彼らの屋敷は街道筋以外の東西の通りを遮断するために南北に長く建てられた。その名残か、今もこの界隈は横道が少ない。
大久保小学校・幼稚園のある場所は、小泉八雲終鳶の地。ここで東京帝大を解雇さ≡れ、早稲田大学に就職した直後、心臓発作で急死。 児童の半数以上が外国人という中で日本語国際学級開設。

小泉八雲記念公園
「怪談」で有名な小泉八雲の胸像や来歴を示すプレートなどがある。

稲荷鬼王神社
境内に戦災で焼け残ったスダジイの木と焼夷弾で崩れた石碑が見られる。近くの大久保会館(映画館・廃館)を偲んで映画博物館もある。

高麗博物館






(了)

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