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平成の虚無僧一路の日記

福沢桃助とお房さんとマダム貞奴 

2019年03月29日 外部ブログ記事
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「福沢桃介」は、諭吉の次女「房」さんの夫です。旧姓は「岩崎」。現在の埼玉県吉見町の貧しい農家の次男でしたが、「神童」と言われるほど、頭が良く、旧知の人の世話で慶應義塾に進学した。慶應の運動会で桃介の眉目秀麗ぶりが福澤諭吉の妻・錦の目にとまり、次女の「房」引き合わされる。1887年 福沢諭吉の援助でアメリカに留学、2年後に帰国して、房と結婚し福沢姓に変わった。福沢諭吉には、男子が4人もおり、養子をもらう必要も無かった。しかし、諭吉は人一倍の子煩悩で、娘可愛さのあまり、「結婚したら夫の姓を名乗らなければいけないというものではなかろう」と、岩崎桃助を「福沢」姓に改姓させた。だから養子ではない。桃助は、肺結核にかかったが、その療養の間、株を研究し、株で大もうけをした。当時の金額で10万円(現在の20億円前後)という。そして、株で得た金を元手に実業界に進出する。木曽川水系にダムを築き、水力発電所を設置して、電気を関西方面に売った。名古屋でも電気の需要を起こすため、日清紡績や大同特殊鋼などいくつもの会社を起こし、鉄道を敷いた。現在の中部電力や大同グループ、名鉄グループの創業者であり、名古屋発展の功労者であるが、なぜか、あまり知られていない。な〜ぜか?。それはどうも「諭吉」の娘「房」さんとの不和にあると私は思っている。「桃助」には学生時代から想いを寄せる人がいた。「川上音次郎」の妻「貞奴」だった。「貞奴」も「音次郎」という夫がいながら、「桃助」のパートナーとなって事業を助けた。世間から見れば「公然たる不倫」である。「桃助」は福沢諭吉からも快く思われず、当然、経済界で活躍する慶応のOB達からも疎外されることとなった。当然「お房」さんは面白くない。東京渋谷区広尾の400坪もある敷地に、「房」さんは母屋と別棟の二棟新築し、二人は敷地内で別居することとなる。「桃助」は「諭吉」とは真逆で「歌舞音曲」が大好きだった。広尾の「桃助邸」には、劇場館まであり、役者を呼んでは演劇鑑賞会なども行われた。貞奴が日本初の「女優養成学校」を作るのにも惜しみなく援助している。名古屋には「桃助と貞奴」が住んだ邸宅が名古屋市に寄贈され、今「双葉館」として公開されている。当初「貞奴邸」と呼ばれていたが「不倫相手の名を冠するのはけしからん」との声もあって、以前あった場所の地名をとって「双葉館」。

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