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命かけて中国侵略戦争に反対  日本共産党員「伊田助男」の英雄的行動 

2019年03月22日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



二つのことから新聞アカハタの記事をエントリーしたいと考えました。

一つは、「人骨発見30年」のことです。
1989年7月、新宿区戸山町の陸軍軍医学校跡地から、100体以上の人骨が発見されました。1991年8月24日〜9月1日まで、人骨問題市民調査団(18名・代表越田稜氏)が訪中しました。
当時日本共産党は、中国共産党から文化大革命による不当な干渉によって、交流が断絶していましたが、市民調査団ならばと党国際委員会(委員長緒方靖夫)の許可を得て参加しました。
哈爾浜市を訪問したとき、人民政府外事弁公室の若い官僚が、日本共産党議員であることを知って「日本共産党員伊田助男先生を尊敬している。中国共産党と日本共産党の友好は必要だ。」と管理人に話しかけてきました。しかし初めて聞く名前でしたので、帰京後日本共産党本部資料室で調べました。伊田助男のことが掲載されていた新聞アカハタ記事もコピーしました。

もう一つは、村田光彰元北陸大学教授の「世界的意義があるレジスタンス論」です。
村田先生は、天長節事件の尹奉吉は、ヨーロッパの抵抗運動と同じく世界史的なレジスタンスであると論じられましたので、明治憲法と治安維持法の下での日本共産党の活動も、日本のレジスタンスとして大いに評価すべきであろうと考えました。

1961年8月13日付アカハタ日曜版と1965年9月3日付日刊アカハタの記事をアップします。

1965年9月3日付の日刊アカハタ


1961年8月13日付のアカハタ日曜版


1965年9月3日付の日刊アカハタ記事の文字起こし
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命かけて中国侵略戦争に反対
日本共産党員「伊田助男」の英雄的行動

共同の敵うち倒そう
32年前、中国東北の前線で
遺体のそばに手紙残し 抗日遊撃軍に弾丸贈る

中国「人民日報」などが称賛

中国共産党機関紙「人民日報」と中国人民解放軍機関紙「解放軍報」は、かつて中国人民のうえにはかりしれない惨禍を与えるとともに日本人民にも死と破壊をもたらした旧天皇制日本軍の中国侵略戦争に反対し、三十二年前中国東北の戦線でみずからの命をかけて共同の敵日本ファシストとたたかう中国人民の戦友になろうとした一日本共産党員の英雄的な行動についての紹介記事をこのほどあいついで報道しました。自国人民にたいする私心のない献身と国際主義をかたく結合して党創立以来、野蛮な弾圧のもとで屈することなく人民のたたかいの先頭に立ってきた日本共産党の輝かしい伝統を身をもって実践したこの一党見兵士の業績については、この事件の二年後モスクワで開かれたコミンテルン第七回大会の席上、中国共産党代表王明(陳紹禹氏=現中央委員)から報告され、一部の人びとのあいだで知られていました。本紙でも三十二年七月四日付で、この「王明報告」を訳出、紹介しました。しかし「王明報告」では、この日本人兵士の名は明らかにされておらず「無名の党員」としか報道できませんでしたが、こんどの「解放軍報(八月十九日付)と「人民日報」(八月二十二日付)の記事によってはじめて「伊田助男」と判明しました。このほか両紙の報道によって事件がおきた日時も「王明報告」で「一九三五年六月二十三日」となっていたのが「一九三三年三月三十日」と訂正されたのをはじめ事件の概要についてもより正確な補正がおこなわれています。以下に「人民日報」に掲載された李延禄(リー・エンルー)氏の「輝かしい国際主義の戦士−伊田助男」の全交を紹介します。筆者の季氏は、その文中にあるとおり、当時伊田助男氏が所属していた日本軍部隊と直接戦闘をまじえ、伊田氏の遺体を手あつく葬った「抗日遊軍」の軍曹だった人です。
なお、現在編集局でも伊田助男氏のことについては両紙の紹介以上のことはわかっておらず、調査をつづけていますが、読者のみなさのうちで伊田氏やその所属部隊のことについてお知りの方は、たとえ断片的なことでも編集局あてご連結くださるよう願います。

 伊田助男、これは外国の一人の戦友の名前です。それは私の心のなかに金で鋳こまれたもののように、永遠にひかり輝いています。しかし、私はかれが中国を侵略していた日本軍の?剛〔ペつごう)村一旅団の一兵士であったということ以外、今もってかれについて、なにも語ることはできません。

 その当時は、東滿の幾十万の旧軍隊は、自衛軍と改めましたが日本軍の?討伐?にたえられず、逃げたり、敗れたりしてしいました。一九三三年(昭和八年)春、東滿における抗日戦争のの局面を挽回するために、党は私たちに、党が把握していた一千余の救国軍の残りを、当時の解放区の中心地馬家村に移動させ、?抗日遊撃軍?と改めるように指示しました。

 敵はいささかも手をゆるめず、ただちに救国軍討伐の主力を仕立て延吉、和竜、琿春、汪清四県の三千余の日本軍を集めて、?剛村一旅団長の指揮で、すぐさま私たちをを追撃してきました。三月三十日、馬家村一帯でたたかいの火ぶたはきられました。

 あけがたから日がくれるまて、敵は飛行機と大砲で「孤独山」を攻撃しました。「孤独山」上のわが軍の一部は困難をきわめ、弾薬をほとんど使いはたしてしまいがしたが、敵はさらに休む間もなく攻撃してきました。硝煙のたちこめるなかで、「孤独山」上からは、弾薬の補給をうながす旗信号がひっきりに送られてきました.弾(たま)はいったいどこにあるのか。私たちはあせりました。

 敵の最後の攻撃を撃退したので、敵はたそがれになって「孤独山」から撤退していきました。私たちはこの機会に乗じて、すぐ戦場に弾をひろいにいくように各部隊に命令しました。

 真夜中すぎ、前方からの報告によると、別働隊が?牙(シアャー)河下流の肚子(トウズ)付近の戦場を捜索していたとき、松林のなかに歩兵銃の弾を満載した一両の日本軍自動車がかくされているのを見つけました。それはどんなに人びとの心をふるいたたせたことでしょう!、弾! 私たちはこんなにたくさんの弾を手に入れられることなど思いもつかないことでした。

 弾はすぐにかついで帰り、それぞれ戦士たちに分け与えられました。ありあまるほどの弾は、私たちのしずんだ心をはればれとさせました。あけがた、私は、各陣地を回り戦士たちが犠牲となった戦友を陣地からかついできて、埋葬する準備をしているのを視察しました。私は烈士たちの遺体の前にたって、黙々と確認していました。そのなかには遊撃軍の同志も、解放区の大衆もいました。私は一つ一つみているうち、おどろいたことには烈士の遺体のなかに日本兵の死体がよこたわっているではありませんか、?なぜ、かれをかついできたのか??私は別働隊の同志にたずねました。

 別働隊の隊長李光同志は?軍長、かれは私たちの同志です。この車の弾はかれが、私たちにくれたものです″といいながら、ポケットから一枚の紙を出しで、私に手わたしました。みるとその紙は、こまかな日本字がぎっしりかかれたもので、私はますますわからなくなってしまいました。

 李同志のいうところによれば、かれが別働隊をひきつれて松林のなかでその自動車をみつけた時、自動車ののエンジンはこわされいました。その時、かれも敵が、なぜそれをひっぱていかずにこわしたのか理解できませした。かれらが松林を離れ、さらに前進、捜索していた時、?牙河のほとりで、この日本兵の死体をみつけました。

 その死体から十数歩離れて石があり、ノートをひきさいた紙がおさえてありました。それがこの紙なのです。私はさっそく、日本語がのわかる同志をさがしてきてもらい、よんでもらいました。紙には、こう書かれていました。

 親愛なる中国遊撃隊の同志のいなさん
 私はあなたがたが谷間でまかれた宣伝物をみてあなたがたが共産党の遊撃隊であることを知りました。あなたがたは愛国主義であり、また国際主義者でもあります。払はあなたがたと会い、いっしょに共同の敵をうちたおしたいと思いました。しかし、私はファシストの獣どもにかこまれており、道をふさがれています。
私は自殺を決意しました。私は私の運んできた十万発の弾を貴軍隊に贈ります。それは、この松林のなかにかくしてあります。どうぞ日本のファシスト軍をやつけてください。私の身は死すとも革命の精神はながくのこることでしょう。神聖な共産主義の事業が一日も早く成功することを祈って
 関東軍間島輜重隊
日本共産党員 伊田助男
  一九三三年三月三十日

 私は深い.尊敬の念にうたれました。まわりの遊撃隊の戦士たちも伊田助男同志の遺体のまわりをかこみました。涙が人びとのほおをつたって流れました。私はかがんて伊田助男同志の遺体に近よりました。かれは、安らかに目をとじており、黒いまゆは長くのび、顔は血と泥にまみれてはいましたが、かれのりんとした落ちつきをいささかも変えるものではありませでした。

 私たちはかれのせ手をにぎって、静かに呼びかけました。
 ?伊田助男同志!?
 かれは静かによこたわっていました。私はかれがまだ死んだとは思えませんでした。かれの心はそのまま躍動していました。――それは国際主義の心です。それは、中日両国人民は永久にともにあり、と宣言しておりました。

 私たちは伊田助男同志の遺体を遊撃軍の烈士といっしょに静かなみどりの谷間に埋めました。
 かれは、中国の抗日の英雄たちとともに、この地に永眠することでしょう。
 三日後、遊撃軍同士と馬家村の大衆は、伊田助男同志の墓の前で、追悼会をおこない、あわせて馬家村小学校を?伊田小学校?と改めて、中華民族解放のために、自らの年若い生命を投げうった日本共産員を永遠に記念しました。

 伊田助男事件がおこってから、日本特務機関は?剛旅団の犬捜索をおこないました。まもなく、この部隊は延吉全部にばらばらにさせられ、将校や兵士は各地の?思想矯正?に送られ、?剛村一旅団長自身も解任させられました。

 十万発の弾は私たちを困難のなから救ってくれました。私たちは伊田助男同志を永遠に記念すると同時に、この事件を党の上級に報告しました。あとになって、伊田助男同志の国際主義の精神はコミンテルン第七回大会の会場で伝えられました。
 偉大な日本共産党に感謝します。
  あなにはこんなに立派な息子を
    育てあげたのです!
・・・・・・・・・・・・・・

(了)

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