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日本の歴史を見て驚く事(民衆の大虐殺無い) 

2018年12月17日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



飛鳥時代〜平城京5

豪族たちの争い
 ☆多くの土地を得た貴族が財を成し、彼らの権力争いが一層盛んになつた
 ☆貴族たち、天皇をめぐって権力争いをする
 *長屋王の変、藤原広嗣の乱など
 *天皇を殺して自らが頂点に立とうというものではない
 *天皇の側近になる&愧儡とするためのものであった
 ☆この時代、天皇はすでに不可侵な存在になっていた
 ☆政変に加え、天然痘の流行など
 *朝廷は都を恭仁京(木津川市)→難波宮(大阪市)→紫香楽宮(甲賀市)と遷都
 *五年後に、再び平城京に戻した
聖武天皇の治世
 ☆世の中の乱れを仏教で救おうと、全国に国分寺・国分尼寺を建てることを命じる
 *東大寺の大仏の製作宣言
 *延べ三百六十万人が工事に携わった
 *国家財政は窮乏し、労働に駆り出された農民の生活は一層苦しくなる
 *土地を手放す者が増え、律令体制の基本公地公民の制度が崩れていった
 ☆「責めは予一人にあり」聖武天皇の残した言葉
 *飢饉や天然痘の流行は、自身の政に問題があるからだと自らを責めた天皇
 *大仏が人々を救うと信じ造立した
 ☆聖武天皇のお后光明皇后
 *孤児や貧しい人の保護施設悲田院、病人に薬や治療を施す施設施薬院を建てる
 *自らも病人の治療に当たった
日本では、国際的な色彩を持った文化が花開いた
 ☆大仏と大仏殿はその後、三度炎上した
 *時の権力者によって再建されている
 *現存する東大寺の大仏は大部分が鎌倉時代に補修されたもの
 ☆正倉院には、ペルシャやインド、唐のガラス器や楽器、焼き物などが数多く残っている
長岡京へ
 ☆仏教の振興は皮肉なことに寺院や僧侶の力を増すことになった
 ☆彼らが政治にも容喙し始め、桓武天皇は、平城京から長岡京へ遷都した
 *長岡京に遷都したもう一つの理由は交通の便
 ☆長岡京は、10年で平安京へ遷都される
 *長岡京は、平安京を作るためのモデル都市であった可能性もある
 *「崇り」を恐れて遷都された可能性もある
 ☆平城京、平安京、長岡京も唐の長安を模して作られた都
 *いずれの都にも長安とは決定的な違いは、城壁がない事
日本の都市(都)の特徴的
 ☆都市というのは、食料と物と人の集積所である
 ☆襲って奪えば、大きな利益を得ることができる
 *ヨーロッパや中国の都市はすべて堅固な城壁を周囲にめぐらして、街全体を守っている
 ☆日本は、飛鳥時代以前に都市から城壁をなくした理由
 *単一言語を持つ民族である
 *日本列島が四方を海で囲まれていた
日本の歴史を見て驚く事
 ☆ヨーロッパや中国では当たり前のように行なわれてきた民衆の大虐殺がまったくない
 ☆これは非常に幸運であると同時に、誇るべき歴史であると思う
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
出典内容の知識共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介しました
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
詳細は、出典記事・番組・画像で確認ください
出典、『日本国紀』






飛鳥時代〜平城京4(ネットより画像引用)

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