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雑感日記

カワサキ Ninjya の話 

2018年12月08日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



★先日 カワサキNinja のこんな写真をアップしたら結構な人気で、Facebook の写真にいっぱい『いいね』やコメントが寄せられてるので、もう少し『Ninja の話』の続きを書こうかなと思っている。
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 この写真の説明書きにあるように、最初はこのネーミングNInja は、黒装束の忍者イメージでNOだったのである。
 大庭浩本部長が、提案先のKMCに明石サイドの意見として持っていかれたのだが、それを田崎さんが上手に断って大庭さんを説き伏せてしまったのである。
 田崎さんをご存知の方はお解りだと思うが『田崎さんを説き伏せるのは、なかなか大変なのである』
推測するに田崎さんの説得をKMCに出張される大庭本部長に技術部が託したのでは?
私はたまたまその席に居合わせて話を聞いていたのだが、大庭さんご自身の強烈な意向ではないことは明らかだったのである。
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★Ninjaのネーミングの発案は、KMCのアメリカ人だと思うが、後述するように田崎さん自身も気に入っていた節がある。
40年近くたった今、Ninja=Kawasaki と言ってもいいぐらいに定着しているので、結果としては大成功のネーミングであったことは間違いないのである。
ただ当時は、技術部は納得できなかったのか、Ninja を使ったのはアメリカモデルだけで、欧州モデルはGPZ900Rでスタートしているのである。
因みに、カワサキのクルマで、こんな『ネーミング』がついた車としては「ZEPHYR」があるが、このネーミングも提案者は当時のカワ販の若手なのである。
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★ネーミングは兎も角、このNinja 900というマシンそのものが良かったのだと思う。
このNinjaのエンジン設計を担当したのは、若き日の山田浩平くんである。
私は田崎さんとも、山田浩平くんとも、不思議なご縁で繋がっていて、一言で言えば『仲のいい仲間』なのである。 
そんなこともあって、この900のマシンを山田浩平くんが、どんな気持ちで創ったのかということは何となく解っている積りである。
私が彼と出会ったのは、Ninja 900が世に出た1982年からずっと後の90年代、カワサキでX-11というサーキット走行マシンの開発をやっていたころ、この時の担当が山田浩平くんで、その時初めて彼と出会ったのである。
 こんなかっこいいマシンなのである。
  
 KAZEというマークがあるように、この開発については 国内販社カワ販がサーキット走行など大いに面倒を見たのである。
? これは当時の岡山のTIサーキットでの写真だが、多田や宗和のライダーたちも乗りたくてマシンに群がっていた。
 これはFacebook に載せたのだが、多田喜代一さんなど、いろんな人がコメントをくれたりしているのである。
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?そんなマシン開発から 山田浩平くんとはその後もいろいろなことで繋がって、このNinja900が山田浩平くんの作だということも解って、何となくいろいろ知っているのである。
 誤解を恐れずに言うなら、若きエンジニアの山田浩平くんのアタマにあったのは「カワサキの名車Z1」で、出来れば「それを抜く存在にしたい」と思ったのではなかろうか? 
私は技術には疎いのだが、このNinja900は、Z1とは正反対のマシンに仕上げたかった節があり、そのあたりのことは、エンジンの細部の仕様に詳しい方に推測してみて欲しいのである。
結果としては、Z1と並ぶ名車に仕上がったと言っていいだろう。
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★ これは、ごく最近、山田浩平くんご自身が Facebook にアップしたものである。
『私のデビュー作品Ninja900と最終作品NinjaH2を同じ俳優が同じ映画で乗ってくれるのは大変うれしい。こういうことはあまりないと思う。』とコメントされているのである。
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 最近出たマシン Ninja H2 は山田浩平くんの最後の作だと言っていい。
 彼はその後カナダ・アメリカKMCなどの販社を経て、品証から技術本部長に戻った時、私にくれた手紙に書いてあったマシンは多分間違いなく Ninja H2のことだったのだと思う。
約束通り彼はこのマシンを仕上げ、世に出してカワサキを去ったのである。
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★ところで、Ninja H2にも使われた Ninja の名付け親は、今となってはその経緯から、田崎雅元さんなのかも知れないのである。
 田崎さんから、私のところには、このNinja にまつわる話を、いっぱいメールで送ってきてくれているのである。
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古谷さん
1982年版 The/Ninja の翻訳本、古本をネットで見つけ購入しました。この本が、ニューヨークで大ヒットしているという情報が ネーミング 決心の源泉です。ザ・ニューヨーク・タイムズ のベストセラーリストに載り、以後22週間そのまま名をとどめ、ハードカバーで15万部を売り尽くしたようです。
主人公は、東洋人の母親を持つ日本育ちのアメリカ人ニンジャ、作者の狙いは、名誉を重んじる精神、その根幹に据えた武士道で、当時、日本の企業文化、さらには精神文化に関心が高まり、企業経営のテクニックにとどまらない、背景にある日本人の精神構造を知りたがっていた、ビジネスマン、学生の間にに広まった、と解説されています。
この本の出現で、それまでのマンガティックなワルの 日本人、忍者のイメージが激変した、と云われています。NINJAのネーミング、かなりネガティブな雰囲気の中で強行し、結果は大成功、日本から岩崎さんが持ち込んできた、ポスター、バナーなど大量の広告宣伝物にKMCで用意した Ninjaのステッカーを、貼りまわった姿が忘れられません。 このステッカー、やがては 日本、欧州の大人気用品になりました。
ラッキーは続きました。1986年に封切られた映画「トップガン」は、日米ともに空前のヒットとなり、トムクルーズが ダイナミックに乗り回す ジェットファイターF−14 と KAWASAKI NINJA900、これが、日米の若者の間で大人気、 KAWASAKI NINJA は 憧れのモーターサイクルになりました。
アメリカ人の広告宣伝担当者が、「トムクルーズが NINJA900 に乗る!」と興奮して駈け込んできました.トムクルーズが自ら NINJA を決めた、と聞いています。映画のスポンサーに、という話もありましたが、あまりに高額なので諦めました。 替りに、全米の封切映画館の正面にNINJA900 を展示することにしました。 スポンサーは、コカコーラ になったと思います。
「映画 トップガン と カワサキNINJA900 ]で検索すると大量の情報が出てきます。
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★こんな昔話を含めて、Ninja について、こんなブログがアップできるのは、今となっては「田崎雅元さんと山田浩平さんと私」ぐらいしかいない、そんな時代になってしまった。
1982年からもう40年にもなろうとしている。3人ともカワサキの現役は離れてしまったが、未だにこんな昔ばなしを楽しんでいる。
 『楽しめる』のは、夫々自分の想いを持って、その時々に当たったからだと思う。
 カワサキには、そんな伝統みたいなものがあって、それが『カワサキのイメージ』に繋がっている。
 できれば『Ninja に代わる新しい何か』を創り出して欲しいなと願っている。
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