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慶喜

黒船来航 明治維新 大東亜共栄圏(6) 

2018年10月26日 外部ブログ記事
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新政府の緊急の課題と日本の都今でも京都の背景

慶喜が参加すると、どのような形で新政府に参加するか
 ☆幕府領を新政府と徳川家でどう分けるかが模索された
 ☆慶喜周辺の融和派への工作をしたのが土佐の坂本龍馬ら
 ☆坂本龍馬は、政権居座りを図る会津藩の好むところでなかったので暗殺された
 *実行犯は、会津出身で幕臣佐々木只三郎で、命令は会津上層部から出ていた
 ☆小御所会議が開かれ、「王政復古」決定する
 *徳川家の辞官納地(官職辞任と領地全面召し上げ) 
 ☆薩摩の挑発にのった会津など強硬派が挙兵し鳥羽伏見の戦いで敗れた
 *南北朝以来はじめて『錦の御旗』が、絶大な効果を発揮した
 ☆逆賊になるのは嫌な慶喜は江戸に戻ると謹慎
 *官軍が東上すると江戸城は無血開城された
 ☆江戸城にあった強硬派は東北や北海道に逃れ抵抗し戊辰戦争が起きた
 *会津などでも民衆がむしろ官軍に協力的だつたのが致命的でした
 ☆板垣退助は、四民平等にしないと日本を守れないと確信した
 *自由民権運動の原点
新政府にとって緊急の課題
 ☆いかなる形で政府を組織し、政府をどこに置くかというこ
 *明治天皇は少年で、実質的な政治指導者とする選択はない
 *公家や大名に実務ができるような人材は少なかった
 *上級公家の三条実美と、中級公家の岩倉具視が太政大臣と右大臣を占めた
 *大名では、佐賀の鍋島直正が優れた人物として認められていて、大納言として加わる
 *この段階では、農民や町人は排除されていた
 ☆日本には、庶民が学べる高等教育機関が存在していなかった
 ☆すぐれた人材発掘システムがあった藩
 *名君・鍋島直正が全国一といわれた藩校を活用する
 *薩長土肥も、藩校を活用し、偶然の勝者ではありません
京都はいまも都
 ☆東京は誕生日がない首都です
 ☆東京遷都はなし崩しにされ、遷都するということを宣言しませんでした
、☆東京遷都は、公家のなかに「薩長の影響力を強める」との懸念があった
 ☆戊辰戦争も終わっていたので、天皇は京都に帰ろうということになった
 *京都に帰ったのですが、翌年再び天皇が、東幸されることが発表された
 ☆京都で即位礼を行うということで決着した
 ☆幕末・明治期の歴史が専門は、明快に教えた
 *『府』という漢字は軍事・政治の拠点や大都市を意味する
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
出典内容の知識共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介しました
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
詳細は、出典記事・番組・画像で確認ください
出典、『最強の日本史』


日本の都は、平成の時代でも京都(ネットより画像引用)

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