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平成の虚無僧一路の日記

学徒生は核実験の生贄にされた 

2018年08月03日 外部ブログ記事
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今日8月6日は「広島に原爆が投下された日」。(社)実践倫理宏正会(朝起会)では、毎年8月6日朝5時〜6時『平和祈念朝起会』を開催しています。その日は「上広栄治会長」の著書『倫理がひらく君たちの未来』が読まれます。ここから先のことは、昨年も書いたことですが、今年も書かずにいられないので、再掲させていただきます。その本によれば、「朝起会」の創設者「上広哲彦氏」は、広島の三菱重工に勤務し、家族は広島から30kmほど離れた加計町に疎開していた。しかし、その日の朝は、学徒動員で三菱重工に はいってくる学生たちを迎えに横川駅まで出向いていた。そして「トイレにはいった瞬間、爆風で吹き飛ばされた。急いで外に出、待ち合わせの場所に行くと、無数の無残な学生たちの姿。生き残った人は皆無だった」とあります。現会長の「栄治」氏は、小学校の校庭で朝礼中に閃光を見る。やがて紙ふぶきのようなものがキラキラと落ちてきて、それを拾って帰ると、母親が「すぐに捨てなさい」と注意されたとあります。この話から、私は二つの疑問が生じました。ひとつは、新型爆弾が 危険な放射能を降りまく原子爆弾であることを、母親が知っていたということです。もうひとつは、多くの人が疎開し、食料事情も悪い中、8月6日の早朝、8時を期して、近郷から多くの学生が広島市内に集められていたということ。学生だけでなく、この日の8時までに、西部方面の全司令官も広島に集められていました。いつもなら9時からの会議が、この日に限って「9時では遅い、8時に集合させよ」との「畑俊六・西部方面第二軍司令長官」の厳命が出ていたというのです。畑俊六は「8時から会議」と命じていながら、自分は 原爆投下時、広島市から 20km 郊外の自邸に留まって、原爆を避けていたのです。畑俊六の側近も、高野広島県知事も避難していて無事で、原爆投下のその日のうちに「復興作業」にとりかかっているのです。このことから、戦争終結のための密約が、アメリカと昭和天皇のごく一部の側近(鈴木貫太郎首相、畑俊六)との間で交わされていた。それは、原爆投下にあたって市内がもぬけの殻では困るので、軍人や学徒を動員するというもの。中国、九州の全司令官が集められたのも、戦争終結(降服)時に、無用な動きをさせないため、一網打尽に始末したものと考えられるのです。広島の平和記念の碑文は、「二度とくりかえしません」と、まるで原爆投下に日本政府?も関与していたような表現です。 こういう話に目を輝かすのは私だけでしょうか。毎年、このブログで書いているのですが、反応はゼロ。「今さら、それを知ったところで何になるの。昭和天皇も畑俊六も、この世には居ないのだし」と冷ややかな反応です。「実践倫理(朝起会)」でも、先代会長は「原爆の被害に遇いながらも、アメリカを恨まず 憎まず、現実を大肯定して、力強く明日に向かって今日を生きよう」とこの会を発足させたのでした。

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