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戦国の薩摩最強伝説 

2018年06月22日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



九州統一目前まで迫った島津四兄弟の真実は

 ☆島津家 は九州統一をするつもりはなく名誉を守っただけ
 ☆島津義弘は鬼島津ではなく人心掌握の達人
 ☆島津退き口 は家康本陣の中央突破ではなかった

戦国時代、九州を支配下に置き『九州の覇者』となった島津家
 ☆『戦国最強』戦上手、『鬼島津』明・朝鮮軍が恐れおののいた
 ☆『島津に暗君無し』当主が代々有能&有能&有能
 ☆島津家を強い大名家へと立て直したのが四兄弟の祖父・島津忠良
 (戦国時代に突入したばかりの頃の島津氏の勢力圏も薩摩の一部)
 ☆島津貴久『島津四兄弟』の父親(53歳で長男・義久に家督を譲り隠居)
島津貴久の息子『島津四兄弟』!
 ☆島津義久(島津四兄弟の長男で島津家当主)
 (大人しい性格で、義久自体は戦にはでていない)
 (島津軍総司令官として抜群の戦略眼を持ち、数々の戦で島津軍を勝利に導く)
 (抵抗を続ける弟達を押し切り、豊臣秀吉に降伏し、島津家のピンチを救った)
 ☆島津義弘(島津四兄弟の次男)
 (島津家当主である兄・義久の右腕的存在)
 (下の弟二人が早くに逝去し、義久と義弘が中心となって戦国時代の島津家を支えた)
 (『島津ヤバイ!最強!強烈!』というイメージを作ったのも次男・義弘)
 (朝鮮出兵では明・朝鮮連合軍からは『鬼島津』なんて呼ばれて恐れられた)
 ☆島津歳久(島津四兄弟の三男)
 (長兄・義久の指揮の元に活躍した武将)
 (島津家が豊臣秀吉に降伏してからも歳久はアンチ秀吉的な態度をとる)
 (アンチ秀吉派が、反抗して一揆を起こし歳久は一揆の責任をとる形で自害する)
 ☆島津家久(島津四兄弟の四男)
 (家久だけ父の妾が生んだ子供であり、若い頃はそれを気にしていた)
 (家久は懸命に学問・武芸に励み、兄達に引けを取らないほど立派な武将へと成長)
 (『釣り野伏』などの戦術を駆使し、九州の三大勢力の龍造寺氏隆信を討ち取っる)
 (秀吉が送り込んできた仙石秀久・長宗我部元親軍を叩きのめす)
島津豊久(島津家の家臣)
 ☆島津義弘を敵の追撃から守る為、命尽きるまで敵と戦い薩摩武士の意地と勇気を世に知らしめた
 ☆31歳という若さで亡くなってしまいましたが『薩摩武士の鏡』とも言われる忠義心厚い猛将
島津忠恒(島津四兄弟の次兄・島津義弘の三男)
 ☆島津義久には男子がおらず、また島津義弘の長男、次男が逝去した
 ☆関ヶ原の戦いの後に島津家の家督を継いで当主となる
 ☆忠恒は情に厚い父・義弘とは真逆で、人を軽く見る傾向アリ
 ☆『島津に暗君なし』と言われるほどに有能揃いだった島津家ではちょっと異質な存在
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
出典内容の知識共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介しました
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私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
詳細は、出典記事・番組・画像で確認ください
出典、BSTBS『諸説あり』












戦国の薩摩最強伝説(BSTBS『諸説あり』テレビ画面より画像引用)

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