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たかが一人、されど一人

社会復帰に向けて 

2018年04月03日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

無職の老人には関係なく時は坦々と移ろい、また入社、入学のシーズンがやってきた。自分の時代と比べれば、同年齢の人間が半分以下になっているのだから社会の何かが大きく変わっていて当たり前だ。しかし、18歳や22歳くらいの若者の心理には半世紀を超える昔の我が想いと変わらぬことも沢山あるだろう。入社して間もなくと言っても2、3年は経っていたかもしれぬが、得意先の先輩から聞いた言葉を懐かしく思い出す。たまたま同じ高校(先輩にとっては中学)の出身であったことから、大変かわいがっていただいた。未だ社会のことが殆ど理解できず、無我夢中だったころだったが、何かの拍子に聞いた一言である。「君が今の私の年齢に来るまでには気が遠くなるくらい長い時間がある。」要するに、経験不足を気にするな、一つ一つ経験を大事につき重ねていきなさい。良いこと悪いことが次々に現れるだろうが、それが人生と言ううものさとの意味だったように思う。年齢的には二回り近い先輩だと思うが、父なんかよりは大分若く戦地にも行っていなかった方だった。今にして思えば、経験を通して学習したことは確かに貴重と言えるような気もする。しかし半世紀以上の年月を経て、自分は如何ほどの経験を積むことができたのであろうか?先輩の言葉を思い出して、今更ながら経験の乏しさに忸怩たるものがある。考えてみると、過去30年くらいの間、結婚生活の後半は夫婦共々意図的に新たな経験を避けて暮らしてきたからだろう。恐らく普通のリタイアメントは第2の人生と称する時期を、趣味などに大いに拡大するところかもしれぬ。現役時代はその予行演習と心得、現役時代に培った知識をさらに掘り下げたり、やり残したことを改めて追及したりする人も多い。60歳過ぎてからゴルフがうまくなったとか、夫婦で世界をくまなく回るといった話はよく聞くところでもある。人生100年時代が現実味を帯びているのだから、至極当然かもしれぬ。ところが我が家は妻がそういった精神の拡大傾向が全く無かったせいか、こちらも現役時代に羽を伸ばし放題だったせいか、会社勤めを終えると何となく内に籠りがちになり社交性も縮小するし、新たな経験に挑戦する意欲が失せる一方だった。そこにもってきて突然の妻の死だから、ここ3か月は一層その傾向が強まった。引き籠りは一番いけないと他人から忠告されたりして、多少は自覚するようになったこともあり、陽気が良くなってきたこともあり、今日は今年初めて国会図書館で小説を読んできた。浅田次郎の『神坐す山の物語』である。神坐す山とは奥多摩の御嶽山のことであり、結構面白い。夢枕獏であればいざ知らず彼がこんな小説を書いているとは知らなかった。3か月以上活字から遠ざかっていたので、こんなところから徐々にらしさがもどってくれば良いことだろう。それにしても国会図書館のパソコンシステムの変貌ぶりは凄い。莫大な投資なんだろうが、もっと他の方面に向けたらどうかと思ったりもした。

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