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市民に愛された暴君?ネロ 

2018年03月06日 外部ブログ記事
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ネロ・クラウディウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマニクス(ローマ帝国の第5代皇帝)

ネロの誕生から即位まで
 ☆ネロは、父が帝位を継承した年に産まれ、父の死去後は、母、妹と共にローマを追放される
 ☆ネロは、叔母のドミティア・レピダのもとで育てられた
 ☆伯父のクラウディウスが擁立され第4代ローマ皇帝となり、ネロはローマに戻る
 ☆伯父クラウディウスが死ぬと、ネロが18歳で皇帝に即位した

皇帝ネロの政策の光
 ☆ローマの大火後にネロが陣頭指揮し、被災者の救済やそのための迅速な政策実行した
 (ローマ市の再建は市民に受けがよかった)
 ☆ブリタンニアで女王を首謀者とする反乱が起こったが鎮圧に成功した
 ☆オリエント諸国との外交政策も成功
皇帝ネロの陰(暴君)
 ☆皇帝ネロとその周囲の人間(母と側近2人)との間に緊張関係が生じた
 ☆ネロが母親の干渉を疎ましく思うようになる
 ☆ネロの暴君ぶりは、元老院議員の生死まで左右した(多くの元老院議員処刑された)
 ☆ネロは母、妻を殺害し、ローマ大火の犯人としてキリスト教徒を迫害した
 ☆部下や親族の見目麗しい人物を男女問わず皇帝の権限で搾取した
 ☆有能な将軍を証拠もなく謀殺し軍からも反感を買った
皇帝ネロは、芸術の愛好家
 ☆歌が好きで、数千人に及ぶ観衆を集めコンサートを開くのが趣味であった
 ☆「青年祭」という私的祭典で演奏し、ネロ祭を創設した
 (音楽、体育、戦車の三部門からなり、ネロは竪琴、詩、弁論の3種目に出場)
 ☆オリンピア競技にも出場し優勝した
 ☆詩人として、ナポリで初めて公式に舞台に立った
皇帝ネロの自死
 ☆ローマで、穀物の価格が高騰し、その対策の不備でネロは市民の反感を買った
 ☆元老院は、ネロを「国家の敵」としガルバを皇帝に擁立する
 ☆ネロは逃亡し、ローマ郊外の解放奴隷の別荘に隠れ、自らの喉を剣で貫き自殺した
 ☆自殺後、墓にはローマ市民から花や供物が絶えなかった
 ☆死ぬ直前の言葉「何と惜しい芸術家が、私の死によって失われる事か」は有名
皇帝ネロの死後
 ☆皇帝アウルス・ウィテッリウスは、ネロの立派な葬儀を行った
 ☆死後にネロは神格化された
 ☆帝政初期のローマ建築、皇帝ネロが造形に与えた影響はかなり大きい
 (皇帝浴場と呼ばれている建築の先駆けとなるネロ浴場)
 (ドムス・アウレア(黄金宮殿)を建設)
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出典内容の知識共有、購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介しました
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私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
詳細は、出典記事・番組・画像で確認ください
出典、『WIKIPEDIA』












市民に愛された暴君?ネロ(NHK『ザ・プロファイラー』番組画面より画像引用)

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