田舎より発信

型破りな先生 その3 

2018年02月21日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し


わたしが小学5年6年と2年間担任だったN先生の話の続きです。その1、その2を書いてから、その3がまとまらず、言葉を繋ぐのにだいぶ苦労しました。その間雪も激しかったこともあり、ブログにまでなかなか手が回らず当時の記憶はちゃんとしてはいるんですが、結構社会的なことも絡んでるな、と思うようになりまして文章もまとまらず、記事を仕上げるまで時間がかかってしまいました。まずはその当時、どんな出来事があったのか少し振り返ってみますね。1976年の出来事ロッキード事件アントニオ猪木、モハメド・アリの対決オリンピック・モントリオール大会ピンク・レディー デビューおよげ!たいやきくん大ヒット周恩来、毛沢東 死去などなどここから本文です。まずはN先生のおさらいから。N先生は男性。恐らく40代後半くらいかな。中肉中背。恐らく結婚していたと思います。やや後頭部の髪が後退していました。型破りな点を箇条書きします。1、常に下はジャージ、裸足にサンダル、上は、夏は下着っぽい2、朝礼から1日中教室にいて、職員室にめったに戻らない3、国語は漢字の読み書きだけ。読解は市販のテストで学ばせる4、算数はXとYを使った連立方程式を教える5、社会の授業はNHKの教育テレビ6、体育は男子に相撲があり、素っ裸にまわしをつけさせ、自身もつける7、竹刀を持ち歩く8、禅のように目を閉じてじっとさせ、動くと竹刀で叩かれる9、宿題など忘れ物をすると竹刀で叩かれる10、成績が悪いと竹刀で叩かれる11、静かにしないなど、注意される時竹刀で叩かれる12、酔って夜、いきなり生徒の家に行く13、将棋を教え、休み時間は総当たりリーグ戦14、性教育を女子も一緒に自ら黒板に図解でそのまま教える15、成績は市販のテスト用紙フル活用、採点は休み時間に教室で16、テスト結果を偏差値に作り直して実名で全員分貼り出す17、生徒の秘密をバラす18、度が過ぎる生徒のイタズラに、校長室に呼び出される19、共産主義と民主主義、どちらが良いか生徒に問う前回は16まで解説しました。17からですが、次の18は飛ばして最後にします。思い付きで並べたので、後で考えると17と19をまとめた方がよいようなので。17、生徒の秘密をバラすわたしのクラスにはなぜかとんでもない生徒が多く集まってしまったようで、特に学年1の悪ガキがクラスメイトでした。子分をとっかえひっかえ引き連れて悪さをしたりいじめられっ子をいじめたり、時には子分もターゲットになり子分がいつの間にかいじめられっ子になり、また子分に戻らせたり。男子のみならずたまにわたし含む女子も、幾度となく彼らには嫌な思いをさせられました。いつも騒がしいし、落ち着きがないし、彼らが騒ぎ出すといつもうんざりでした。そんなちょっと問題ありだな、と思われる生徒がしかも何人か一気にわたしのクラスに集まった感じでした。でもそんな悪ガキどもでも、N先生が叱ると一時的に静かになる、まあ、この手の悪ガキどもはいつの世も一定の割合で発生するタイプのしょうもない器の小さい連中です。で、学活の時間かな、どのタイミングで聞いたかは失念しましたがまた授業もせずに、なぜN先生がこの話をしだしたのか。いきなり、いえ、話の流れや前後はすっかり忘れた(聞いてない)のでもしかしていきなりでなかったかもしれませんがクラスメイトの悪ガキの子分の一人について、仮にK君とします。K君のことを、多分彼は秘密にしたかったことを話し出したのです。K君はやや小柄かな、少しやせ形で、顔はややスネ夫似。N先生は「Kは日本人ではない、韓国人だ」と、クラスのみんなの前で言いました。当時わたしは、自分の住む地域に外国人が住んでいるなんて、全く想像できませんでした。地域性もあると思いますが、東北は当時から定住している外国人は、本当に少なかったと思います。ましてや、日本人と顔が似ている韓国人を、外国人と見た目で認識する事もできませんでした。今でも難しいですが。K君の苗字は、ごく一般的な苗字ですし。今ではこの話の前後を全く覚えてません。なぜこんな話をしたのか、K君の家庭環境はどうなのかなど。ただ、N先生はK君は日本人じゃないけど、同じクラスメイトなんだから今まで通りクラスメイトとして付き合いなさい、というような事を言った気がします。わたしは、何をいまさら、話し方だって普通に日本語、というか米沢弁だしK君の口から朝鮮語を聞いたこともないしそれまでだって、「なんかK君ておかしくね?」なんて思った事もなかったですから。ただ、やはりクラスメイトに外国人がいる、というのは特殊なことなんだなと受け止めました。その後はなぜそれを話したんだろう、という違和感でいつまでも記憶に残っています。クラスメイトも、N先生にそういわれた後もほとんどK君への接し方は特に変化なく、相変わらず悪ガキいじめっ子の子分をさせられてました。子どもの受け止め方はそんなものなのでしょうが、恐らく、クラスメイト達は家に帰って親に報告したことでしょう。わたしは特に伝えるほどの話題とは思わなかったので話しませんでしたが。今にして思えは、もしかしてですが、そのクラスメイトの親達の間で何らかの動きがあったのかもしれません。「何らか」とは、のちのちN先生の言動をPTAにかけるとか、そういう事です。それと、K君は韓国人といっても、南の大韓民国か、北の朝鮮民主主義人民共和国か、全くわかりません。当時は大韓民国も民主国家ではなく、朴正煕による軍事政権でした。でももちろん、当時のわたしはそんな知識持ち合わせてません。で、それもなんとなく踏まえて、次の一つ飛ばした19の項に行きます。19、共産主義と民主主義、どちらが良いか生徒に問うこれもね、こんな、小学生に突拍子もないことばかり話す先生だったから、授業内容よりインパクトがあって、いつまでも記憶に残るんですよ。この冒頭に、1976年の出来事を紹介しましたが、当時小学6年生の時代には近隣諸国の出来事と日本を結びつけて考える能力なんて全くなかったけど今こうしてみると、当時は中国の周恩来主席や、毛沢東の死という出来事があったんですね。つまり、中国の文化大革命の崩壊の序章でもあったわけです。ソビエト連邦といい、中国といい、北朝鮮といい、まだまだ日本の周りは共産主義国家が幅を利かせてた背景があります。それもあってか、N先生は授業のような授業でないような、教科を超えた時間にわたしたちに共産主義とは何か、民主主義とは何かを話しました。共産主義の見本としては、中国を例に話してくれました。当時の中国はステレオタイプでの見方だったと思いますがみな同じ人民服を着て、同じような行動をして今の中国人のイメージとだいぶ違います。当時の共産主義の意識を、N先生はわたしたちに言いました。今現在の中国と比べず、当時の認識で見てください。曰く(要旨)いいか、共産主義だと決められた仕事さえこなせば、生活に困らないんだ。家も、着るものも、食べるものも国から与えられる。あくせく働いて金を貯めなくても生活できる。貧乏人はいない。資本主義は働かなければ生活できない。食えなくなる。但し金を持てば何でも出来る。どっちがいい?と。こんな風に共産主義と資本主義のどちらが良いかと、選択を迫った先生は、高校生までの先生の中でN先生だけです。どっちがいいか、と聞かれても、あくせく働かなくても食に困らないんだったら共産主義の方がいいのかなあ?でも(当時の)中国人みたいに同じ服しか着れないのはつまんないなあ大好きな漫画も見れないかもしれないし。N先生曰く(要旨)お前たちはこのまま民主主義がいいのか、それとも共産主義がいいのか、決めていくんだぞと。今から思うと、なぜN先生はこんな事言ったのか。恐らくですが、当時の社会情勢を踏まえて考えると社会主義、共産主義を主張する教職員組合が台頭してきて、わたしの小学校の教師たちにも共産主義を是とする教師が結構いたのかもしれません。教職員組合の勢いが増してきたように思いますしそれとN先生は一線を画していたのかもしれません。N先生なりに、それとは抵抗したかったのかも、と今なら思います。18、度が過ぎる生徒のイタズラに、校長室に呼び出されるさて、最後に持ってきたこの項目。このわたしのクラスは偶然とはいえ、N先生という、とんでもない先生といじめっ子やら悪ガキやら、とんでもない生徒が多いという稀にみるとんでもないクラスだったのは間違いないです。悪い部分は重なるものです。そんな中、K先生は、生徒を竹刀で叩くなど、多少行き過ぎた指導はありましたがそれでも休み時間は総じて生徒は思い思いにのびのび遊んでいたし、将棋もみな反対もせずに楽しんで取り組んでいたし、たとえ先生が教室にいたとしても、それが当たり前で自由に過ごしてました。いつも怖がってばかりではありませんでした。こんな先生だから、やはり今振り返れば父兄や他の先生からの抗議がなかったとは考えられません。当時はわたしも子どもだったし、教師に物言う父兄なんているものか、そんなことすら想像できませんでしたけど。で、当時のわたしの小学校は4年の時に古い木造校舎から建て替えが始まりメイン校舎は鉄筋コンクリートの4階建てになりました。6年になると、教室はその4階に移りました。その6年の時の出来事です。なぜ男子がこんな行動をしたのか覚えてませんが、その日の昼休みに、男子は4階の教室の窓から中庭に向かって紙飛行機飛ばしをしてました。誰が始めたか、いじめっ子も、そうでない子も、多くの男子が面白がって飛ばしていたかも。当時は4階建てなんて珍しいし、高い場所から下を眺めるのもそれまでほとんどの生徒があまり経験のないことでした。誰が滞空時間を長く保てるか、紙飛行機に多くは夢中でした。そのうち誰かが、も少し重さのあるものを飛ばし始めたようです。見てなかったので何を飛ばしたか分からないのですが、紙でないものでも、どれだけ遠くに飛ばせるか競い始めたようで。飛ばす、というか、投げ始めたといった方がいいのかも。でも、そこは中庭。下に誰かいたら危ないよなあ・・と、またバカをやってる、と、チラッと考えてました。もうすぐ昼休みも終わりを告げる、5分前の予鈴が鳴り、それでも男子は飛ばすのをやめず・ ・ ・ ・間もなく、教室のスピーカーから「6年5組のN先生、N先生、校長先生性がお呼びです。至急校長室へお越し下さい」と放送が。N先生はいつものように左端のマイ教壇にいました。校内放送が聞こえたことで男子たちもふと我に返り、物を飛ばすのを止めました。教室にいるのに、生徒を注意しない先生・ ・ ・ ・「全くお前たちのせいで・ ・ ・」こんなセリフを吐きながら、N先生は苦笑いを浮かべ、教室を出ました。その表情、後ろ姿は何ともいえない哀愁を帯びているように感じこの時初めて事の重大さに気が付きました。自分たちのせいで先生が注意を受ける・ ・ ・ ・こんなことは初めてだったのでかなり衝撃を受けて記憶に刻まれました。さあ、昼休み開けの教室は、N先生がなかなか帰ってこないので学級委員長を中心に学活に変更です。今はHRと言うのかな。学級会議が始まりました。明らかに自分たちのせいで先生が呼び出しを食らった。さあ、先生が戻ってきたらどうするか?取りあえず、謝ろうと話はまとまって・ ・ ・ ・====================N先生の型破りな話はここまでです。エピローグとして。ここからは、当時の認識を現代の認識と同等に語れない話をします。差別的表現になってしまいますが、当時はそういった認識がなく社会通念上普通だったこととして読んでください。その後のN先生は、聞くところによると、わたしたちが卒業すると同時に同小学校から移動になりました。移動先は、障害児の特殊学校、今でいう特別支援校に移動です。これは、当時としては全くの異例で特殊学校勤務の教師は特殊学校間での移動はあっても、普通学校から移動されることはほとんどありませんでした。これは何を意味するか、言葉はものすごく悪いのですが、左遷のようなものです。N先生は、二度と普通学校(こう言う風に分けて表現するのも問題あるとは思いますが)に戻らなかったと伝え聞きます。なぜそうなったかは、やはり今回紹介した最後の3つのエピソードがN先生を前々からよくは思わない教職員組合やらPTAやらに、かなり影響を与えてしまった事は間違いないでしょう。当時生徒だったわたしからするとこんな先生、こんなクラスは最悪としか考えられず嫌な思い出ばかりが大半を占めていたのですが年を重ねて行くにつれ、段々と色々とおかしな点は多かった先生ではありましたが折に触れ社会生活観点から思い返すたび学校では学べない、実に多くの事を体験した貴重な2年間だったと思えるようになりました。関連過去記事:型破りな先生 その1型破りな先生 その2 

>>元の記事・続きはこちら(外部のサイトに移動します)





この記事はナビトモではコメントを受け付けておりません

PR







掲載されている画像

    もっと見る

上部へ