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聖徳記念絵畫館「六十四 靖國神社行幸」 〜靖国神社の創始〜 

2018年02月08日 外部ブログ記事
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聖徳記念絵畫館壁畫集「六十四 靖國神社行幸」がある。
日清戦争の戦死者を合祀した明治28年12月17日臨時大祭に、明治天皇の傍らに祭典委員長川上操六、陸軍大臣大山巌、海軍大臣西郷従道の名前が見える。






立命館大学名誉教授赤澤史朗先生から頂いた『靖国神社 「殉国」と「平和」をめぐる戦後史』から一部を転載したい。
(傍線は管理人)
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靖国神社の特別な位置
 靖国神社は、国家神道の中心的な神社として位置づけられるものであった。官社(明治政府が伊勢神宮を除く全国の神社に与えた社格の一つで、国家的待遇を与えられた一振りの官社と、数多くの諸社の二つに分かれる)に指定された近代の創建神社は、いずれも天皇統治の正統性を弁証する国体論をその由緒に組み込んでいた神社群であった。
中でも靖国神社の元となる東京招魂社は、他の多くの創建神社がその祭神を、はるか昔の天皇や南朝の忠臣といった歴史的な人物に求めているのに対し、直近の幕末維新期の政争における官軍側犠牲者を祀る官祭招魂社(招魂社の中で、国の保護・管理を受けたもの)を代表するものであることで、じかに近代天皇制国家を創りだした祭神の神社として、特別の待遇を受けていた。
 東京招魂社の創建に当たっては、その創建が「天皇の大御詔」に基づいていることが強調されており、官軍側戦死者の功績を顕彰し「慰霊」するのがその目的であった。一八六八年(明治元)五月一〇日、二つの太政官布告が発せられる。その一つはペリーの来航以来、天下に先んじて国事に関わって死んだ、安政の大獄の獄死者などを、京都の東山に祠宇を建立して祀るというものであり、もう一つは戊辰戦争の官軍方で奮闘・戦死した者を一社設けて祀るというものであつた。両者は、合祀対象者の性格は異なるものの、その基警なる考え方では一致していた。いずれも「国家の大事」(国家的非常時)を前にして天皇と国家(これは未だ生まれていない国家)のために献身し、不幸・無惨な死を遂げた者たちを、国民国家の体現者である天皇が憐れんで祀る、という趣旨のものであった。
 その合祀には、単に栄誉を与えて顕彰するというだけでなく、人生の中途で倒れ、今やその名も忘れられかけている不幸な死者の名とその存在を、けっして忘れないものとしたいという意図があった。これは維新政府の指導者たちの、死んだ同志への思いであつたろう。しかし、この幕末維新期における政争の「官軍」側の死者という祭神の限定は、「国民」の中に差別をもたらすもので、ナショサリズム一般には解消できない強い政治性が見られた。東京招魂社は一八七九年に靖国神社となってからは、官祭招魂社の系列では唯一、別格官幣社(臣下を祭神に祀った官幣社)の社格が与えられる。それは近代天皇制国家の、いわば守護神としての神社であったといえよう。
 靖国神社の祭神は天皇への上奏と裁可によって決定されるタテマエとなっており、その鎮座祭に始まり例大祭・合祀祭には必ず勅使が参向するのが常であった。そして一八七四年に始まる天皇の行幸と親拝は、この神社の存在にとって不可欠のものとなっていった。この最初の行幸の際にも、明治天皇が歩く沿道・石段より神殿内上段に至るまで「御敷物」が敷かれ、神殿内に「玉座」が設けられてそこで天皇が「御拝」している。
(中略)
 靖国神社の元となる東京招魂社は、戊辰戦争の戦死者を祀った神社であり、この戊辰戦争の祭神の合祀に当たって、封建的身分制度の動揺期ということに関連して、合祀者に多くの非武士層を含んでおり、国民中心主義のそれを示していた。なお靖国神社の合祀基準中、戦病死者の特別合祀を決めた日清戦後の大改革は、この戊辰戦争の祭神の合祀の先例を再発見する形で改訂されたものである。
 靖国神社の祭神は、戊辰戦争から西南戦争に至る幕末維新期の内乱の死者を中心としたものから、主に日清戦争後には外征戦争の死者を中心としたものに変わる。この祭神の変化は、従来の官軍・賊軍の対立の中での官軍の死者の顕彰という位置づけから、その官軍の外延を拡大し、靖国神社の基盤を「国声的なものに拡警せる契機になった。従来の国内の賊軍は、日本の外敵の軍に変わったのである。
 ここに来て靖国神社は、近代天皇制国家の対外的戦勝や国家的発展を約束し守護する軍神の神社となり、軍国主義が国民の中に浸透す中で、その合祀基準の本来持っていた政治性は国民にとって自覚されにくいものとなっていく。また、対外戦争の戦没者の「殉国」を讃える施設としては、慰霊塔や忠魂碑など多様な形態のものが建設されるようになるが、靖国神社がそれらの頂点に立つという位置づけは、戦前期を通じて変わることがなかった。
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東海林次男氏、森田俊男氏、渡辺賢二氏と管理人が執筆者として2006年に発刊した「学び・調べ・考えようフィールドワーク 靖国神社・遊就館」から「第2章 遊就館の展示が語っていること」の一部を転載したい。
(「東京の戦争遺跡を歩く会」は、出版に際して管理人の自宅と電話番号を使用した。2010年に転居。)
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§展示室5【靖国神社の創祀】
 パネルにはさまざまな説明がありますが、靖国神社の創建とその性格の特徴を示す説明はつぎの3点です。
第1の特徴−−「六 戊辰戦争一諸道招魂祭」
 「江戸に官軍が入城して、東征軍大総督は陣没者の招魂祭執行を布告した。参戦各藩には戦没者の名簿を作成して、すみやかに提出するよう示達された。戦没者名簿を作成するということは、のちに靖国神社の祭祀の根本をなすこととなる」
戦没者の祭祀をし、称える儀式を行うには戦没者名簿の作成が不可欠であるとしています。敵対する軍隊の戦没者は対象になっていません。
第2の特徴−−「十一 明治天皇の御親拝」
 「明治七年一月二十七日。……戊辰戦争の開戦日を記念とする例大祭に、天皇は初めて招魂社に行幸。戊辰戦争戦没者三五八八柱の英霊に親しく御拝あそばされた。……我が国の戦没者慰霊がこの招魂社で、天皇陛下の主宰のもとに行われる大原則が示されたのである」
天皇自身が戟没者を「英霊」とする俄式をい拝するということです。
第3の特徴−−「十三 東京招魂社から靖国神社へ」
 「‥…軍務官に所属して創立された『招魂社』は『神社』となり、国家の宗祀として、また日本人の祖先崇拝の信仰に基づく、祭祀制度が度が確立する」
天皇制国家の戦没者にたいする祭祀制度として靖国神社ができたとする説明です。
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