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笠原十九司氏は「海軍も悪玉」、竹内正浩氏も同じく「地図で読み解く日本の戦争」で 

2017年12月08日 外部ブログ記事
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今から76年前の12月8日に、陸軍がマレー半島に上陸、海軍がハワイを空襲した日、すなわち太平洋戦争が始まった日である。
都留文化大学名誉教授笠原十九司氏は以前から「日中全面戦争と海軍 パナイ号事件の真相」(青木書店)と「海軍の日中戦争 アジア太平洋戦争への自滅のシナリオ」(平凡社)や7月に上梓された「日中戦争全史 上・下」(高文研)の中で、陸軍悪玉論・海軍善玉論、陸軍は暴力的だが海軍は理論的だみたいな戦争認識は間違いであると論じていた。
「地図と愉しむ東京歴史散歩 地形編」(中公新書)の著者竹内正浩氏が「地図で読み解く日本の戦争」(ちくま新書)を上梓していることを知ったので古書店から購入した。
竹内氏も笠原氏と同じ戦争認識であった。
軍隊では「地図は見る」のではなく「地図は読む」と言われているが、竹内氏は戦国時代から「軍事と地図情報」の重要さを強調し、第七章「大東亜戦争と地図」では「古い地図で真珠湾を攻撃」したことを明らかにした。
その一部を引用したい。

(略)
旧態依然の海軍と山本五十六の作戦
 一方の海軍にしたところで陸軍と大差はなかった。海軍の仮想敵は、日露戦争以降アメリカとされていたものの、これは艦隊増強の目標あるいは予算獲得手段とでもいう色合いが濃厚であった。いちおう対米作戦としては伝統的に「漸減邀撃作戦」があったが、現在の目からみれば、作戟と呼ぶに催しないほど非現実的な想定であった。これは、来売するアメリカ艦隊を日本の南方海域で待ち受け、少しずつ撃破して数的優位を確保するというものである。いってみればパルチック艦隊を撃破した日本海海戦の再現であった。しかも、日露戦争後の陸軍が「外征軍」化していたのに対し、海軍の思想は、世界第三位の海軍といわれながら、依然として「専守防衛」一本だったのである。それでいて、今でいう補給線確保やシーレーン防衛という発想は皆無であった。
 昭和一四年(一九三九)八月に聯合艦隊司令長官に親補された山本五十六海軍中将は、それまでの漸減邀撃作戦とはまったく異なる構想を抱いていた。
 航空部隊による真珠湾攻撃計画である。
 当時第三戦隊司令官だった小沢治三郎中将が戦後書き残した手記には、「昭和十六年四月、例年のごとく聯合艦隊で各軍指揮官を集め大演習の図上演習が行われた。その際、山 本長官は小沢に、内密に?開戦劈頭の真珠湾奇襲″を漏らされた」とあるという。
 しかし山本が進めるハワイ作戦はあまりに危険だとして、軍令部(大本営海軍部)は強く反対する。それに対して山本は、職を賭して粘った。最終的に軍令部が折れ、ハワイ作戦を軍令部総長(大本営幕僚長)永野修身大将が承認したのは、昭和一六年一〇月一九日である。開戦まで残された時間はニケ月たらずしかなかった。
 アメリカは、日本軍が来襲するとすれば、米領のフィリピンとグァム島だろうと長年予想していた。だが実際は、海軍がハワイを空襲し、陸軍はイギリス領のマレー半島に上陸した。緒戦の勝利を確認した東條英機内閣は、一二月一二日の閣議で「今次ノ対米英戦争及今後情勢ノ推移二伴ヒ生起スルコトアルヘキ戦争ハ支那事変ヲモ含メ大東亜戦争卜呼称ス」と決定している。
 真珠湾攻撃で日本側がアメリカ側に与えた打撃は、強調された戦果のほどは大きくなかった。理由として引き合いに出されるのが、航空母艦が湾外に出て演習中だった事実であるが、実はそれ以上に大きかったのは、巨大な「貯油施設」、太平洋屈指の「海軍工廠」、大量の弾薬が貯蔵されていた「弾薬廠」が、いずれもほとんど無傷だったことである。そのため、沈没した戦艦の多くが引き揚げられ、真珠湾のドックですぐに修理作業にかかることができた。米軍の損害は、艦船と航空機に集中していたのである。
 陸地測量部が昭和一七年(完四二)三月に発行した、真珠湾を含む「五万分一布哇諸島五十一号(オアフ島)ワイパフ」は、「アメリカ国務省一九二七年−一九三〇年測量六万二千五百分一一五色刷図ヲ五万分一二伸図シ四色二応急複製セルモノナリ」(図外の凡例のみ日本語に翻訳)だったが、この地図には、開戦時に存在し軍港施設の記載がない。真珠湾が軍港として開発されたのは昭和二四年だったからである。
 もっとも、この地図を海軍が入手して参考にしたという確証もないし、駐在武官や在留邦人などの情報で、新たな情報を付加している可能性はあるだろう。なぜなら、作戦の事前検討の段階でオアフ島と真珠湾の立体模型が作成されでいたことを、当時第一航空艦隊航空参謀だった源田実中佐(戦後、航空幕僚長を経て参議院議員)が書き残しているからだ。また、真珠湾攻撃の機動部隊を指揮していた第一航空艦隊司令長官南雲忠一中将が坐来していた空母「赤城」作戦室には、畳四畳分ほどの真珠湾の詳細な立体模型が置かれていたという証言もある。ただし、攻撃に参加した搭乗員に攻撃目標の真珠湾の地形が示されたのは、艦隊が択捉島の単冠湾に集結した際の一度限りだったらしい。自軍の将兵にも真珠湾攻撃は徹底的に秘匿されたのである。そして、海軍の情報が陸軍と共有されることはなかった。
 ともあれ、第一波の奇襲攻撃が成功したにもかかわらず、作戦を指揮した南雲中将は、第二波以降の攻撃を中止して帰投してしまう。その後に南方作戦が控えていたためとも、あるいは米軍機の逆襲を恐れたためともいうが、理由は定かではない。


陸海軍の縄張り争い
 約三年九ケ月続いた大東亜戦争では、帝国海軍が予想したような艦隊決戦はほとんど惹起しなかった。戦争の勝敗を決定づけたのは、太平洋の孤島をめぐる争奪戦であった。
 ところが日本は、島嶼戦についての研究をしてこなかった。海軍が長年墨守してきた「漸減邀撃作戦」では、もっぱら艦隊決戦ばかりが論じられ、島々の軍事的価値とその防衛のことが考慮された形跡はほとんどない。アメリカが警戒してきた日本軍による内南洋(ミクロネシア)への本格的な要塞・軍港・基地建設は、トラック島やペリリユー島を除いて、なにひとつ着手されなかった。しかも、アメリカの海兵隊に相当する帝国海軍の海軍陸戦隊特別陸戟隊は、米軍に対してあまりに非力であった。米軍が、水陸両用作戦の専門部隊である海兵隊を保持し、強襲上陸を自家薬籠中のものとしていたのと対照的である。
 帝国陸軍にいたっては、開戦四ケ月前まで対ソ戦を志向していたのだから、島嶼戦への準備そのものが存在しなかった。マレー作戦の主力となった第五師団(広島)は、上陸が得手だったとされるが、敵前の強襲上陸は想定外であった。そもそも南洋諸島は、対独戦の際に海軍担当とされ、以来この地は、いわば海軍のナワバリとしで、陸軍がまったく関与できない状態になっていたのである。
 水陸両用作戦である島嶼戦の遂行には、陸海軍の密接な連携が欠かせない。陸上部隊・艦艇・航空隊相互の連携が不可欠だからである。だが、日本軍にとって、それは最も苦手なことであった。建軍以来ほぼ一貫して陸海軍はまったく分立したかたちで存在しており、肝心の「統帥」に関して両者を調整するものは、「大元帥」たる天皇しかなかった。開戦直前の昭和一六年(一九四ニー一月二六日、陸海軍で「占領地軍政実施二関スル陸海軍中央協定」が結ばれている。これは陸海軍の軍政担任区域を画然と分けるものであった。
 具体的には以下の区域である。陸軍ノ主担任区域−−香港、比島、英領馬来、「スマトラ」、「ジャワ」、英領「ボルネオ」、「ビルマ」。海軍ノ主担任区域−−蘭領「ボルネオ」、「セレベス」、「モルツカ」群島、小「スンダ」列島、「ニューギニア」、「ビスマルク」諸島、「ガム」島。
 開戦後の第一段作戦では、陸海軍はほぼこの区域どおりに作戦の主導権を分担した。それも無理からぬことであった。陸海軍の協同作戦については、実戦・演習の経験もなければ本格的な研究もされてこなかったからである。
 ただし、地図に関しては若干事情が異なっていた。陸軍の陸地測量部と海軍の水路部は 明治の建軍以来まったく別個の組織として歩んできたが、昭和一○年から水路部に長年在職した坂戸直輝氏によると、「当時の陸地測量部と水路部とは、多くの記録によれば非常によく連絡がとれていた」という。坂戸氏自身の体験でも、互いに作成した最新の地図類を寄贈しあうような良好な関係が築かれていたようだ。機密図に関しても、手続きをとれば貸借が可能であった。
(略)

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