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北朝鮮ミサイル攻撃”神風”吹くか? 

2017年10月15日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



建国以来二度本土を侵略された日本

鎌倉時代の元寇「文永の役」「弘安の役」蒙古軍と大東亜戦争での米軍
 ☆鎌倉幕府は、元の対応として、寺社に「敵国降伏」の祈祷を命じた
 ☆護憲派(リベラル派)は、北朝鮮ミサイル攻撃の現状で、憲法9条の擁護活動をしている
 (鎌倉幕府が命じた祈祷を命と変わらないのでは?)
 ☆現状の日本人は「敵国降伏」を天に向かい祈祷しているのと同一ではないのか?
蒙古の国書を無視した日本の対策
 ☆朝廷や幕府は全国の寺社に「敵国降伏」の祈願を行うように命じました.
 ☆外敵と戦った経験が無かったためにその恐ろしさがまだ分かりませんでした
蒙古は、数回使者を送り7ヶ月間待ったが、日本は返事しませんでした
文永の役(1274年)(元・高麗軍3万の兵が日本に攻めてくる)
 ☆文永の役では、嵐は起きませんでした
その後、元は日本への使者を2回送るが、2回とも使者を斬り捨てる(元の怒り)
弘安の役(1281年)
 ☆元軍は東路軍・江南軍の兵力(兵14万人・軍船4,000艘)日本に攻めてくる
 ☆元軍,嵐にあう(4千艘の船は暴風雨にあって、兵士80〜90%死亡)
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
出典内容の知識共有、購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介しました
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
詳細は、出典記事・番組・画像で確認ください 
出典、鎌倉時代を勉強しよう(玉川学園・大学・協同 多賀歴史研究所)
      出典、 BS11「尾上松也の謎解き歴史ミステリー」













北朝鮮ミサイル攻撃”神風”吹くか(「尾上松也の謎解き歴史ミステリー」番組画面より画像引用)

皇帝「フビライ・ハーン」の蒙古の国書の趣旨
これから日本と大蒙古国とは,国と国の交わりをして仲良くしていこうではないか
我々は全ての国を一つの家と考えている
日本も我々を父と思うことである、このことが分からないと軍を送る
それは我々の好むところではない
日本国王はこの気持ちを良く良く考えて返事をしてほしい

蒙古は、数回使者を送り7ヶ月間待ったが、日本は返事しませんでした
日本としては返事をしないことが断固とした態度であると考えていました
相手にその意志は通じませんでした
四度目の使者として趙良弼が百人の部下を連れて日本にやってきた
太宰府に着いた使者は「天皇や将軍に会わせないならこの首を取れ」と言いました
幕府は今回も返事をしませんでした

文永の役(1274年)(元・高麗軍3万の兵が日本に攻めてくる)
フビライは高麗に対して日本遠征のための造船を命令しました
 ☆高麗は、大型船300艘他900艘の船を作りました
蒙古の残虐な行為は世界の至る所で行われ大変に恐れられていました
元・高麗の記録を見ると日本側は一方的に不利でした
 ☆日本軍は、一人で突っ込んでいったことです(武士が名乗りを上げて一騎ずつ戦う作法)
 ☆元軍は、鉦や太鼓の合図で全体が動く集団戦法で戦いました
文永の役では、嵐は起きませんでした
 ☆フビライは、派兵を「おどし」のためにおこなった
「元軍は夜に船に戻って」そのまま帰った

日本軍に恩賞がなかった
幕府は120名の御家人に対して,文永の役の恩賞を与えました
それは恩賞がなければ命をかけて戦う武士などいなかったからです.
その恩賞は、今までの戦の恩賞に比べてとても貧しく見劣りするものでした

元の日本への使者日本は2回とも斬り捨てる(元の怒り)
元の使者が再び日本送られ、使者の使命は天皇や将軍に国書を渡す事でした
文永の役は「蒙古の恐ろしさを知らせる」のが第一の目的でした
鎌倉に送られた一行は「龍ノ口」で全員処刑され首はさらされました
外交使節を罪人なみに斬ってしまうと言う、当時としても異常な出来事でした
幕府は弘安2年の正使とする一行も、博多で全員斬りました

日本のそなえ(異国征伐・防塁)
鎌倉幕府は、九州全土と安芸の御家人に対して「異国征伐」の準備を命じた
征伐に加われない御家人には博多に集まり「防塁」を築くことを命じました
今日博多湾に残る「蒙古防塁」とか「石塁」よ呼ばれるものです

弘安の役(1281年)
元軍は東路軍・江南軍の兵力(兵14万人・軍船4,000艘)日本に攻めてくる
日本では防御に備え、海岸線に防塁が築いていました
14万の元軍に対する日本軍は全部で6万5千人くらい
日本の武士は夜になると敵船に乗りこんで火をつけたりしたゲリラ戦

元軍,嵐にあう(4千艘の船は暴風雨にあって、兵士80〜90%死亡)
嵐の去った翌日は,船の残骸と無数の死体が海をうめつくしました
戦意を無くした范文虎らは残った船で宋へ引き上げてしまいました
鷹島には置き去りにされた兵(捕虜)は、皆ことごとく首をはねられてしまいました

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