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歴代天皇史(朝廷を冷遇した家康) 

2017年09月01日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



翻弄される朝廷、江戸幕府の統制下に朝延も組み込まれた

徳川家康は、京都にて征夷大将軍に任じられ江戸幕府を開いた
 ☆大坂城には秀吉の遺児、豊臣秀頼が健在であった
 ☆年頭公家たちが、大坂城に赴いて秀頼に参賀の挨拶を行なう
 ☆後陽成天皇は、第二皇子(後水尾天皇)に譲位して仙洞御所へ退いた
徳川家康の朝廷への対応は厳しかった
 ☆江戸幕府は「公家衆法度」を制定、「禁中並び公家諸法度」を公布した
 ☆幕府は京都所司代を置いて朝廷や公家衆の行動を管理し、統制を行なった
 ☆朝廷は、幕府の決定なくしては何事も忙行できないシステムが構築された
後水尾天皇は、逆境の中でも朝廷権力の維持に努め気概を示した
 ☆後水尾天皇は、天皇の第二皇女興子に譲位を宣言
 (興子の母は、二代将軍徳川秀忠の娘、後水尾天皇と徳川家の娘の間にできた子)
 ☆女帝明正天皇が誕生し、実権は後水尾天皇が握ったまま
 ☆4年後水尾天皇は、徳川家光に院政を認めさせている
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
出典内容の知識共有、購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介しました
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
詳細は、出典記事・番組・画像で確認ください
出典、『歴代天皇史(三栄書房)』(綺麗な絵画が記載されています)






朝廷を冷遇した家康(『歴代天皇史(三栄書房)』記事より画像引用)

後水尾天皇の幕府への反発「紫衣事件」
紫色の法衣や裂裟は、昔から高い徳を持つ僧・尼が朝廷から賜るものだった
寺社勢力からは付け届けもあり、朝廷にとっては貴重な財源となっていた
幕府は無断での紫衣の下賜を禁じた
後水尾天皇は独断で十数人の僧侶に紫衣着用の勅許を与えた
三代将軍徳川家光は、法度違反とみなし、紫衣を取り上げた
朝廷や僧の反発に対し、幕府は僧たちを流罪に処すといつた刑罰を与えた

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