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島津家の関ヶ原「島津の退き口」 

2017年04月22日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



島津家(島津義久&義弘兄弟)

関ヶ原の戦いで、島津義弘がとった驚異の脱出戦法?
戦場に、西軍の島津軍が取り残された絶体絶命のピンチ
島津軍は、徳川四天王の井伊直政らの追撃を受けるも、離脱に成功し薩摩に帰還する
島津家当主義久は、巧みな外交交渉によって家康を翻弄し、島津家の生き残りに成功
知識・意欲の向上目指し、番組を参考・引用し自分のノートとしてブログに記載
記述に誤り不明点あると思います、詳細、出典記事・番組・画像等で確認ください
出典、NHKBS番組『英雄達の選択』、WIKIPEDIA
 ☆番組の画面引用(集中して番組視るので内容良く理解できます)








島津の退き口(『英雄達の選択』テレビ画面より引用)

島津義久履歴
薩摩国の守護大名・戦国大名・島津氏第16代当主
薩摩・大隅・日向の三州を制圧する
耳川の戦いにおいて九州最大の戦国大名であった豊後国の大友氏に大勝
長男で、優秀な3人の弟(島津義弘・歳久・家久)
九州統一を目指し躍進し、筑前・豊後の一部を除く九州の大半を手中に収める
豊臣秀吉の九州征伐を受け降伏し、本領である薩摩・大隅2ヶ国を安堵される
豊臣政権・関ヶ原の戦い・徳川政権を生き抜き、隠居後も家中に強い政治力を持ち続けた

島津義久関ヶ原の戦い
京都にいた弟義弘は西軍に加担することになる
義弘は、国元に援軍を要請するが、戦後の事を考え義久は動かなかった
関ヶ原後の講話交渉で、西軍への荷担に関し、義久はあずかり知らぬ事で開始する
家康の謝罪要求に対して、義久は「上洛は忠孝に欠けた行い」として動かない
家康に対して義久は、「病のために上洛できない、代わりの者が上洛する」と書状を送る
結果的に、島津家は改易を免れ、本領安堵の沙汰が下った

島津義弘履歴
戦国時代から安土桃山時代にかけての薩摩国の武将、大名
戦国大名の島津義久の弟で、島津氏の第17代当主
武勇の誉れ高く「鬼島津」の異名で知られ、屈指の猛将として有名

島津義弘関ヶ原の戦い
石田三成ら西軍首脳は、わずかな手勢であった義弘の存在を軽視した
関ヶ原の戦いでは、参陣こそしたものの、戦場で兵を動かさなかった
関ヶ原の戦い、小早川秀秋の寝返りにより、西軍総崩れとなり敗走を始めた
敗退経路として、義弘は、前方の敵の大軍の中を突破することを決意する
 ☆旗指物、合印などを捨てて決死の覚悟の突破作戦
島津隊は、東軍の前衛部隊福島隊を突破し、義弘自身も敵中突破に成功した
退却戦は「島津の退き口」と呼ばれ全国に名を轟かせた

島津義弘島津家の存続
島津家は、徳川に対する武備を図る姿勢を取り国境を固め、徳川との和平交渉
義弘は、和平交渉の仲介を井伊直政に依頼し、直政は徳川・島津の講和のために奔走
福島正則の尽力もあったとも言われる

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