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勝海舟(幕末最大の功労者&カリスマ性) 

2017年04月16日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



勝海舟の説得力、人間的魅力、交渉術

広い視野を持って世の中を見る事ができた、江戸幕府の幕臣
坂本龍馬刺客事件(勝海舟の刺客で行った坂本龍馬を弟子にする)
長州征伐で敗北(幕府軍敗退したのに、幕府軍の代表者として勝海舟和睦に持ち込む)
江戸城無血開城(西郷隆盛と敗北が決定的な幕府軍代表者として交渉し無血開城に持ち込む)
 ☆西郷隆盛は、江戸を火の海にすると豪語し、その意向であった
知識・意欲の向上目指し、番組を参考・引用し自分のノートとしてブログに記載
記述に誤り不明点あると思います、詳細、出典記事・番組・画像等で確認ください
出典、NHKBS番組『英雄達の選択』,WIKIPEDIA
 ☆番組の画面引用(集中して番組視るので内容良く理解できます)








勝海舟(『英雄達の選択』番組、ネットより画像引用)

勝海舟は、坂本竜馬、西郷隆盛らを開眼させた
勝海舟の刺客で行った坂本龍馬を弟子にする
鳥羽伏見の戦いで徳川幕府は敗れて、官軍が江戸に向けて進軍
 ☆勝海舟は、幕府軍の軍事総裁として全権を委任された
江戸城総攻撃の直前2日間に、勝海舟と西郷隆盛は会談し、西郷隆盛を説得
 ☆江戸の住民150万人の生命と家屋・財産が戦火から救われた。

明治維新後の勝海舟
旧幕臣の代表格として外務大丞、兵部大丞、参議兼海軍卿、元老院議官を歴任
朝敵となった徳川慶喜を赦免させることに尽力し徳川家を守った
西南戦争で、逆臣となってしまった西郷隆盛の名誉回復にも奔走
 ☆天皇の許可を得るなど上野の銅像建立も支援
明治32年、風呂上がりにブランデーを飲むと脳溢血で倒れて死去
 ☆最期の言葉は名言の「コレデオシマイ」であった

勝海舟の徳川幕府の御家人時代
直心影流免許皆伝の腕前
16歳で家督を継ぎ、蘭学を志し、地理学、兵学を研究し蘭学塾も開いた
佐久間象山より「海舟書屋」の額を貰い受けて「海舟」を自分の号とした

勝海舟の出世
勝海舟が提出した内容は適格であった為、老中首座の阿部正弘に認められた
 ☆ペリー提督の黒船が来航で、幕府は海防意見書を募集
長崎海軍伝習所教頭となり、薩摩藩主・島津斉彬の知遇も得た
日米修好通商条約の批准書交換のため、遣米使節となり、咸臨丸の艦長に就任
帰国後は、将軍・徳川家茂に直訴して神戸海軍操練所を創設
「日本海軍」の建設を目指し、欧米列強に対抗しようとした
坂本竜馬らも受け入れて航海術や操船技術を教えている
 

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