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幸徳秋水の囚人馬車と永井荷風が遭遇した場所の推定地図 

2017年03月03日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



安倍自公政権は「共謀罪」を国会に提出しようと企んでします。
戦前の治安維持法と同じように言論弾圧と民主主義封殺の悪法です。
歴史的にえん罪であったとされる大逆事件で、逮捕された幸徳秋水と永井荷風が遭遇した関係図をアップします。

永井荷風が新宿区余丁町に住んでいたことはご存じだと思います。
「断腸亭日乗」

作品「花火」に、大逆事件で東京監獄(市ヶ谷刑務所)に拘留されていた幸徳秋水らが乗った囚人馬車と遭遇したとの記述があります。

「明治四十四年慶應義塾に通勤する頃【注】、私はその道すがら折々市ヶ谷の通で囚人馬車が五六台も引続いて日比谷の裁判所の方へ走っていくのを見た。私はこれ迄見聞した世上の事件の中で、この折程云うに云われない厭な心持のした事はなかった。わたしは文学者たる以上この思想問題について黙していてはならない。小説家ゾラはドレフュー事件について正義を叫んだ為め国外に亡命したではないか。然しわたしは世の文学者と共に何も言わなかった。私は何となく良心の苦痛に堪えられぬような気がした。私は自ら文学者たる事について甚だしき羞恥を感じた。以来わたしは自分の芸術の品位を江戸戯作者のなした程度まで引き下げるに如くはないと思案した。」
【注】荷風はアメリカ、フランスから帰朝後、森鴎外の推薦で慶応義塾大学文学部の教授となっていました。

余丁町の自宅から市ヶ谷監獄の裏手を抜け、市ヶ谷谷町(現在の住吉町)を通り、港区三田の慶応義塾大学に通うため路面電車に乗りました。
そこで、遭遇した場所を推理した地図をつくってみました。
四ッ谷二丁目と三丁目に停留所がありましたが、当時は谷町からは道路が整備されていませんでしたので、市ヶ谷本村町(後に本塩町)の停留所から乗車したと考えました。

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