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幕末維新 ー近代世田谷の夜明けー(近代建築ツアー歴史散策編) 

2017年02月13日 外部ブログ記事
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近代建築ツアー「世田谷の文化遺産、前川建築の区民会館・第一 庁舎とケヤキ広場」の区庁舎を日本建築家協会世田谷地域の方々がガイドしているところは、昨日エントリーしました。
今日は、「コ ース:松陰神社?桂太郎の墓?世田谷区役所」の歴史散策部分をアップします。

これは平成24年(2011)4月に世田谷区郷土資料館が開催した展示会の図録表紙です。



2015年1月4日から12月13日まで放送されたNHK大河ドラマの第54作は吉田松陰の妹を主人公にした『花燃ゆ』でした。
今年のNHK大河ドラマは『おんな城主 直虎』で井伊家の物語ですが、第1作は、井伊直弼を主人公にした『花の生涯』でした。豪徳寺のボランティアガイド(82歳)のお話では、原作者の船橋聖一はこのドラマを契機に彦根市の名誉市民となったそうです。

当初の企画では、松陰神社から豪徳寺と北朝時代の貞治5年(1366)に吉良治家によって築城されたと言われている世田谷城趾をガイドする予定でした。それは「前川の建築は設計にあたっては、建物が建つ予定の周辺地域を調査し、敷地周辺と調和が図られるよう建物を作り上げていく。敷地周辺と建物が連続的に使用できる空間を組み立てていくところに、前川建築の特徴がある。」と前川建築設計事務所のOBが言われていましたので、中世、近世、近代に亘る歴史ある風土をフィールドワークすることは大変意義のあることだと考えていました。
しかし、仲間から世田谷区役所を重点にすべきだと反対の声がありましたので、松陰神社と桂太郎の墓だけとせざるを得ませんでした。

自宅からは小田急線豪徳寺駅で東急世田谷線山下駅に乗り換え、松陰神社駅で下車します。
豪徳寺駅近辺の商店街には「おんな城主 直虎」のポスターが目立ちます。


松陰神社駅に降り立ちますと、早速吉田松陰についての看板が目に飛び込んできます。


商店街のフラッグ。そして酒屋さんは松蔭のお酒を売っています。国士舘大学のフラッグも。






商店街の一角に「松下村塾学び館」までありました。そこには『花燃ゆ』のポスターが。


中に入ると松蔭の弟子たちの写真や松蔭に関する書籍とグッズが販売されていました。
巻頭言『身はたとひ 武蔵野の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂』が書かれた「留魂録読本」松蔭文庫刊(松蔭本舗 松下村塾学び館内)を購入しました。














さて、松陰神社駅前に集合して頂いた方々を松陰神社境内にご案内し、まず社号標の「府社」を見てもらいました。


境内には入らずに、以前は「松陰神社入口横公園」だった若林公園の一角で説明を始めました。
靖国神社の社号標「別格官幣」と明治4年に決められた「社格」説明し、GHQの命令によって「別格官幣」の四文字は削られたが、松陰神社には「府社」が残っていいます。






吉田松陰と神社に墓がある長州藩志士は、靖国神社に橋本左内や藤田藤伍らと「戊辰戦争等」7,751柱の英霊として合祀されていることも説明をしました。そして戦前の「紀元節」である今日、明治150年として戦前と同じ思想復活を狙っていることに警戒することを呼びかけました。「紀元二千六百年」の歌詞を配り、YouTubeから録音した曲を流しました。



吉田松陰が「幽囚録」の中で朝鮮半島への侵略を記述してある部分を資料として配付しました。
奈良本辰也著「吉田松陰著作集」講談社学術文庫




吉田松陰のこの思想を学んだ弟子たちの伊藤博文たちは明治維新の原動力となり、朝鮮と中国への侵略を目指しました。
1910年8月22日に「韓国併合条約」を締結した夜、朝鮮総監・寺内正毅は「小早川、加藤、小西らが世にあらば 今宵の月を 如何に見るらむ」と得意げに詠みました。
一方、当時24歳の石川啄木は、こう憂いを詠った。「地図の上 朝鮮国にくろぐろと 墨を塗りつつ 秋風を聴く」
【注】小早川隆景(文禄の役)、小早川秀秋(慶長の役)、加藤清正(文禄の役・慶長の役)、小西行長(文禄の役)

次に「廣澤真臣」の墓を説明しました。
公園の高い万年塀から神明鳥居と大きな石碑の頭部分が見えるだけです。




広沢真臣墓「東京都文化財情報データーベース」より
昭和一五年二月標識設置。昭和三〇年三月二十八日都旧跡指定
「解説文」広沢真臣(一八三三〜七こは長州萩藩士で幕末維新期の志士です。尊王壌夷派に接近し、下関砲撃事件に参加、和平交渉も担当します。
第二次長州征伐の指導的対応にあたり、勝海舟と巌島で休戦協定を締結します。薩長同盟の締結にも関与します。維新後、民部官副知事や参議などに就任し、長州閥を代表する存在となります。明治四年(一八七一)に麹町私邸にて暗殺されたました。始め愛宕の青松寺に葬られましたが、後に世田谷大夫山に改葬されました。暗殺犯人は不明のままでした。




世田谷区教育委員会
昭和四十六年三月発行
「せたがや 世田谷の碑文(その一)」より




東京都指定の旧跡ですので墓には説明板もあるようです。しかし高い塀と門扉が堅く閉ざされていますので見学が不可です。都と世田谷区が廣澤家と相談して公開されることを要望したいと思います。


歴史散策の最後は「桂太郎の墓」です。




この墓区画だけを除いた部分は、世田谷土地開発公社が桂太郎所有権者から購入し、平成29年度予算によって公社から世田谷区が購入します。その後設計委託と若林公園増設工事が行われ来春竣工します。




ですので、区教育委員会の案内説明板はシートにくるまっていました。シートを捲ってみましたら大分汚れていました。






以前の説明案内板です。しかし桂太郎は韓国併合条約締結や幸徳秋水らを大逆事件で弾圧した総理大臣ですので、説明文は歴史と客観的な正確なものにしてもらいたいですね。




幕末維新の図録に掲載されている「長州藩抱え屋敷」の古地図

明暦の大火(1657年)後は、江戸に屋敷を持っている各大名は、避難地としての抱え屋敷を持つようになりました。
長州藩二代藩主毛利綱廣大膳大夫は、寛文12年(1672)八王子千人頭志村家から18,300坪を購入しました。

同じく現在の推定図(一部管理人が修正)

地図に見える「毛利家墓所」は東京都が毛利家から昭和35年2月8日に買収し、世田谷区は昭和37年6月30日に若林公園を開設しました。土地の権原は昭和41年11月19日に都から区に譲与となっています。(世田谷公園管理事務所が登記簿謄本から確認してから2月10日、管理人に電話してきました。)

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