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たかが一人、されど一人

正義とか常識について 

2017年02月08日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

野党が文科省天下り問題について、恰も鬼の首を取ったみたいに正義感ぶって追及している。これは如何なものだろうか。官僚とて人の子、当世では定年退職して悠々自適で過ごせる人なんかいないだろうし、再就職先を自力で見つけられる人間がいたらお目にかかりたいものだ。友人の話では「天下り禁止は、職業選択の自由を保障した憲法に抵触の恐れあり。」とする学者がいるそうだ。それは措くとしても、在職中の関係先以外の再就職先なんてあり得ないだろう。それを組織的にどのようにサポートするかである。全省庁がそれぞれ陰に籠った姑息な手段を考えて実行していることを思うと、憐れみより先に可笑しくなってしまう。昔からよく言われるように政官財の三位一体だから、政治家だってその仕組みに組み込まれているのは自明で、官の再就職先の一つにもなっているではないか。世の中は水清ければ何とやらの譬え通り、諸悪が存在するのはやむを得ないと言うと、クレームが来るかもしれぬが、どんなに知恵者の政治家でもこの癒着を切り離すことは殆ど不可能だと思う。問題は程度である。昔の役人は現役時代の給料が民間に比べて低いが、生涯食うには困らないとされていた。父が官僚だったので、幼いころから聞き覚えたことがもう一つある。「お金は無くても威張っていられる。」である。少なくとも我が国は、江戸末期まで士農工商なる身分階級が存在して、左から順番に偉いとされていたらしい。外国の身分制度とは異なり、個人の努力次第で身分階級を突破すのは比較的容易だったと理解しているが、一般社会では、お侍さんが偉いと祭り上げられた存在であったらしい。がしかし、日本の階級制度で興味深いもう一点は、偉さと実入りが反比例していたことにある。お侍の家計に苦労があったことは山本周五郎や藤沢周平の小説にはよく出てくるところだ。百姓の倅であったわが父が侍の流れをくむ官僚の道を選んだのは、貧乏承知で威張りたかったのかどうか、存命であれば聞いてみたい。こういった大きな構図で考えると、現代の官僚は決して給料も悪くないようだ。だから再就職も民間並みにと言う安易な考えが政治問題化してしまったところに問題がある。それを言うなら、先ず政治家自身の財布を考える方が先だ。これも友人から教えてもらったことではあるが。政治家の質が劣化したのは政党助成金のせいだそうだ。政治家がサラリーマン化して社会勉強の努力無しに議会で喋るだけの存在になり果ててしまった。勿論与野党を問わずだである。政治家の報酬をもっと下げて、個々人に金集めの苦労をさせるがいい。汚職事件も増えるだろうが、政治家自身に善悪の判断力が付くはずだ。野党政治家も日本社会を大局的(何も地域的にだけではない)に見て、今どこに根本的問題があるのか。現在の常識を一旦脇に置いてでも考え直す必要がありはしないか。

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