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応仁の乱(京都の町全滅) 

2017年02月08日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



応仁の乱

京都の遺産の多くは、550年前の応仁の乱で炎上、焼失しました
27万人の兵が11年に渡り争い、都は焦土と化しました
戦う目的を失いながらも続いた内戦の実情は、全て自己保身が原因でした
終戦に導いた人物は、その原因を作った日野富子でした
知識・意欲の向上目指し、番組を参考・引用して自分のノートとしてブログを記載
記述に誤り不明点あると思います、詳細、出典記事・番組・画像等で確認ください
出典、番組BS11(尾上松也さんの古地図で謎解き!)
 ☆番組の画面引用(集中して番組視るので内容良く理解できます)






















応仁の乱((尾上松也さんの古地図で謎解き!)のテレビ番組画面引用)

将軍家の跡継ぎの問題
室町幕府8代将軍の足利義政は、男子に恵まれず跡継ぎ問題に困っていました
義政は、弟の義視に後を継がせることに決めました
その後、妻の日野富子との間に(義尚)という男子が生まれました
妻である日野富子の強い説得もあり、義政は後継者を義視から子の義尚に変更しました
将軍家は、義尚派と義視派の2手に分かれました

守護大名(畠山氏や斯波氏)の家督争い
畠山氏の家では、将軍家と同じパターン
 ☆畠山持国には、跡継ぎが出来なかった為、弟の持富を養子にした
 ☆義就という実子が生まれ、持国の実子、義就の間で跡継ぎ争いとなる
斯波家でも養子の義敏が重臣と対立し家督を取り上げられる
 ☆新しく養子となった義廉と義敏の間で家督争い

実力者(山名宗全や細川勝元)の権力争い
山名宗全と細川勝元も娘婿の関係なのですが、幕府の主導権争いで対立中でした
家督争い者は、自分たちを優位にしようと、実力者山名宗全や細川勝元を後ろ盾にして戦いました
東軍・西軍の争い
 ☆東軍、細川勝元側(畠山政長、斯波義敏、足利義視)約16万
 ☆西軍、山名宗全側(畠山義就、斯波義廉、足利義尚)約12万の争い
11年間戦い続けた結果、幕府の力は衰退し、その後の群雄割拠の戦国時代へときっかけとなりました

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