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敗者の日本史(吉良家・浅野家) 

2016年08月15日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



吉良家は断絶、浅野家は再興

逆転した被害者と加害者
江戸城の松の廊下で播磨国赤穂藩主浅野内匠頭長矩が、幕府高家吉良義央を斬り付けた事件
将軍綱吉の処分により、御家存続か仇討ちか激しく対立する浅野家
興味ある本でしたので、購入しノートとしてブログに記載してます
本には、綺麗な絵画が記載されています
 ☆本『敗者の日本史(歴史REAL)』記事参考&引用
 ☆詳細本で確認ください








吉良家(ネットより画像引用)


将軍綱吉の処分
浅野には、即日切腹を命じたうえ、同家の所領を没収し、吉良へは罰を与えていなかった
将軍綱吉は、長矩が一方的に斬り付けたので、喧嘩両成敗法を適用しなかった

江戸赤穂の家臣たちのその後の行動
長矩の実弟長広を擁立し、御家の再興を果たすことを主張する国家老大石内蔵助一派
吉良を討ち主君の恥辱を晴らすことを主張する、堀部安平一派は対立した
浅野家の存続を期待する譜代の大石と、長矩個人との情誼的関係を重視する堀部の相違が原因
長広の本家広島藩への御預けが決定し、主家再興の望みが絶たれ事態は変化した
旧臣たちは、吉良邸へ討ち入りし、長矩の恥辱を晴らすことを誓う

世間が後押しした仇討ち?
離脱者が出るも、残った四十六人の旧臣は、吉良邸に突入した
義央を討ち果たし、その首を泉岳寺にある主君の墓前に供えることに成功した
身柄を預かった大名家でも彼らを丁重にもてなすところもあった
大石らは、幕府の裁定に従い、潔く切腹を遂げる
四十六士は、主君の恥辱を晴らし、思い残すことなく果てた
大石や堀部らは、長矩と同じく泉岳寺に葬られた

遺族たちの意外なその後
養父を助けることなく逃亡した吉良義周は、実家に御預けとなり、高家・吉良家は断絶した
大石家三男の良恭が跡を継ぎ、広島浅野家に仕えた
堀部家は親族の言員が継ぎ、代々熊本細川家に仕えた
綱吉実母の桂昌院の一周忌の恩赦又他の恩赦で、四十六士の遺児や遺族らは赦免となる
六年の恩赦では、浅野長広も赦免となり、五百石を与えられ旗本寄合に列し、御家再興を果たした

四十六士
「四十七士」討ち入り後、足軽寺坂吉右衛門は、姿を消し切腹をまぬがれている
義士は「四十六士」です

吉良義周
実父は、米沢藩四代藩主上杉綱憲
綱憲は、吉良上野介義央の嫡男だったが、母の実家・米沢上杉家に末期養子に入っていた
義周は、吉良家に跡取りとして養子に入っていた

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