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敗者の日本史(豊臣秀頼) 

2016年08月06日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



豊臣秀頼(大阪の陣)

男女で分かれた秀頼の子どもたちの末路
助命された豊臣最後の姫、鎌倉東慶寺で生涯を過ごす
興味ある本でしたので、購入しノートとしてブログに記載してます
本には、綺麗な絵画が記載されています
 ☆本『敗者の日本史(歴史REAL)』記事参考&引用
 ☆詳細本で確認ください








豊臣秀頼(ネットより画像引用)

豊臣秀頼は、大坂城本丸の前で出陣の機会をうかがっていた
家臣の敗将が戻ってくるなかで、家臣のの助言にしたがって本丸へと戻った
三の丸に火の手が上がり、徳川勢は一気に突入してきた
火をかけたのは、徳川勢に内通する者の仕業

秀頼の家臣大野治長の嘆願
千姫を脱出させ、自らの死と引き換えに、家康に秀頼と淀殿の助命を請うた
千姫は、助け出され、のちに本多忠政の息子である忠刻の妻となった
忠刻没後は、江戸へ戻り落飾して天樹院と号している

秀頼と淀澱は城中で自害した(切腹)
大野治長が、秀頼と淀殿の助命嘆願を家康にしたが、家康は秀忠次第であるといった
秀忠の最終的な判断は、ふたりに切腹を申し付けた
大坂城の焼け跡からは、金銀が幕府によって回収された

男女で分かれた子どもたちの末路
秀頼には、側室との間にふたりの子どもがいた
男子国松は8歳で処刑され、女子奈阿姫は、千姫の除名嘆願で命を助けられた
奈阿姫は、落飾して鎌倉の東慶寺に入り天秀尼と名乗る
天秀尼の死亡により豊臣家の血は絶えた

豊臣秀頼
秀吉の子として、豊臣家を継ぐ
関ケ原の戦い後に60万石あまりの大名に転落
徳川秀忠の娘干姫と結婚して右大臣となつたが、大坂の陣で徳川家に敗れ、大坂城で自刃した

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