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大火後の江戸の街の再建・改造 

2016年05月21日 外部ブログ記事
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明暦の大火で江戸の町は、どの様に変わったのか?

都市壊滅後の江戸の再建・改造計画を実施
「密集地の疎開」「市域の拡大」「町割」を中心に改造しました
改造の留意点は、防火体制の強化でした
歴史REAL「大江戸八百八町」記事参考&引用








江戸の町(歴史REAL「大江戸八百八町」より引用)

明暦の大火被害
江戸城天守以下、大名屋敷、八百町におよぶ町家も焼失しました
市街の六割が焼失し、当初の江戸の様相はまったく失われた

密集地の疎開
吹上御苑や北の丸・二の丸などにあった御三家以下の大名や上級旗本の屋敷をすべて内郭の外に移転させた
大名・旗本の屋敷の割替がすすめられ、避難用の下屋敷を山の手に拝領したものも多くいた
江戸城は軍事施設としての機能よりも、統一政権の行政機能を重視しました
河岸(大名小路などの武家屋敷の消費を支える)も移転
浅草、下谷、谷中、牛込、四谷、赤坂、芝、三田、品川などに寺町が新開地として定められました
寺院が外周部に配置される、諸国の城下町に共通する原則が江戸でも適用されました

市域の拡大
開幕以来、江戸に流人する人口は増加の一途をたどっていました
幕府は、赤坂溜池、小石川の沼地を埋め立、木挽町東側の海も埋め立てて築地一帯を造成しました
隅田川左岸の低湿地の開発を進め、本所・深川に新市街地を造成しました
江戸の市街は、外濠を越えて拡張が続けられた
日本橋近くの吉原にあった遊女町が浅草日本堤に移転させた

町割の改正
火除堤・火除明地・広小路などの防火地帯を設けた
神田白銀町から浅草見附にまで至る長い火除堤造成
両国・上野・江戸橋などに広小路も造りました
通町を六間(10.9M)から十間(18.2M)に広げるなど道路の道幅を拡張した
六十間四方の基本ブロックに新道を通して、二十間ずつに分割し、新たに町地を生み出すという手法も採用した
初期に開発された古町地域にも、町地が増大した
増加する江戸の町人人口に対応する土地の高密度利用の政策です

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