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平成の虚無僧一路の日記

京都「妙法院門跡」と虚無僧寺「明暗寺」 

2015年11月08日 外部ブログ記事
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京都駅の東にある「妙法院門跡」。日ごろは非公開。秋の特別拝観とあって
見学してきました。
「門跡寺院」というのは、皇族が歴代住持となる別格の寺院で、特に「妙法院」は、
青蓮院、三千院(梶井門跡)とともに「天台三門跡」と並び称される名門寺院。
後白河上皇の居所(院御所)として、ここで院政が行われた。豊臣氏によって
建てられた豊国寺や、「国家安康」の釣鐘で有名な方広寺は、徳川の世になって
破却され、ここ妙法院の管轄下におかれた。さらに、新日吉(ひえ)神宮や、
三十三間堂をも管理し、その敷地は22万坪と言わた。
さて、虚無僧の本山「明暗寺」は、今は 東海道・新幹線の南側の「東福寺」の
塔中「善慧院」内にあるので、虚無僧は「禅宗の一派」「開祖は東福寺の僧
覚心」などとネット上で書かれていたりするが、それは誤り。
京都明暗寺は、江戸時代の初め1650年頃、京都所司代の配慮で
ここ「妙法院」の一画、わずか45坪を借りて建てられた。それで当初は
「妙安寺」だった。なぜ妙法院だったのか。
「妙法院」が隣接する豊臣氏ゆかりの「方広寺」を管轄していたからでは
ないか。つまり豊臣の残党である浪人者の虚無僧「淵月」のために
棲家を提供したのであろう。
そして、「虚無僧は幕府の隠密」というのも嘘である。
幕末、京都明暗寺は、長州の志士を匿った廉で、看主が捕らえられて
いる。倒幕派だったのだ。なぜ、倒幕派に加担したのか。それは
「妙法院」が三条実美以下、倒幕派の公家の集会所になっていた
からであることが、今回、見学してわかった。ここは「七卿落ち」の
舞台だったのだ。
 

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