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昭和2年生まれの航海日誌

軍拡を背後で感じた年代(3) 

2015年08月19日 外部ブログ記事
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 昭和12年長男である兄が久居農林学校(三重)に
入学した。
 久居には歩兵33連隊が駐屯していた。
 

 入学式を終えた、父と兄は両手で持ちきれないほどの
学用品等を携えて帰ってきた。

 ランドセル、帽子、制服、靴,剣道用具である。
 布製品は、ほとんどが綿製品で、皮製品は牛皮であった。
 しかし、学用品等がこんなに揃えられたのもこの年限りで
あった。
 というのは、7月に支那事変が勃発したからである。

 兄は学校から帰ると、久居駅で兵士を送ったことをよく
話した。

 「今日は竹林さんがいた。隊列を離れ、後はよろしく」と。
 「よく、見分けられたものだなあ」
 「堤防で送っているのではない、いよいよ外地に向かうのだ、
  見過ごせるものではないだろう」
 一瞬会話がとまった。

  
   
 物資が乏しくなっていくのは、  
 学用品だけではない、衣類を始め、食品では先ず菓子が
早々と姿を消しはじめた。

 好きだった、おまけ付きの”グリコ”はいつのまにかなくなって
いた。
 木綿もスフで代用されるものも多かった。
 小学生でも”ステイブル ファィバー”の英語名を覚えた。
 綿製品が貴重なものになり、「純綿」 「純綿」で日が暮れた。
何でもいいものは、これは純綿だぞと言ったものだ。
 でも、それも昭和16年まで、あとはモノがなくなっていた。

 12月8日 真珠湾奇襲攻撃で一時的戦火を挙げた発表が
あったが、もう、喜んではいられなかった。
 アメリカと言えば、エンパイアーステイトビル、4人に1台の自動車の
保有国、金も石油も先ずは何でも世界一の国である。
 日本で、地理、歴史で教え込まれたのだから間違いがない。
 加えて、イギリス、ロシア、フランンス、オランダまでを敵に回す。
いくら子供と言っても騙されはしない。
 当時の物資の流通状況を見たら判らずには居れなかった。

 昭和17年 陸軍飛行学校で、 ハヤブサ、メッサーシュミットを
見たときは、心強かった。それはそうだろう日本一の戦闘機が
集結していたのだから。
 でも、それはB17” 空の要塞”を見るまでのことだった。
 金と工業力がなくては、、、とへこたれた。当時は。

 昨今の日本はどうもうも違ってきた。
 池田勇人の所得倍増、
 田中角栄の列島改造
の時代は、軍備拡張は第一義的にはされな...

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