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古代エジプト 愛と野望の女王たち 

2015年08月17日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



エジプトでの発掘で、女王たちの素顔が明らかに

近年の遺跡の発掘で、権力を握った女性たちに新しい光があたろうとしている
女王ハトシェプス、王妃ティイ、クレオパトラ、王妃ティイの女王
ある時は美を、ある時は権謀術数を駆使して権力への階段を駆け上った
エジプト3王朝⇒古王国(4500年前)新王国(3500年前)アレキサンダー(2500年前)
















古代エジプトの女王(ネットより引用)

ハトシェプスト
ハトシェプスト女王(古王国の女性ファラオ)
ハトシェプストの意味は「最も高貴なる女性」の意味
遷都して、太陽神アテンに変更し、神官の地位弱める(日本の平城京からの遷都と同様の理由)
夫は、妾腹の息子トトメス3世を次の王にせよと遺言し死亡
トトメス3世は幼かったため、以後22年間にわたり共治王を務めた
在位中、公的な場では男装し、あごに付け髭をつけていた
死後、その事跡はトトメス3世によって抹消された

ハトシェプスト女王葬祭殿
ハトシェプストは、葬祭殿を造営しました
後に政敵、トトメス3世により、壁画や銘文が削られました
ルクソール事件では、外国62人が死亡し、日本人新婚夫婦も犠牲になりました

ハトシェプスト女王のミイラ
王家の谷の小さな墓で発見されました
身長165センチ、悪性腫瘍、歯周炎、関節炎、骨粗鬆症、糖尿病等を患っていた

ティイ
ティイ王妃(新王国時代の女性ファラオ)
アメンホテプ3世の正妃
エジプト人ではなくミタンニ王国の平民出身です
アメンホテプ3世に、大切にされ、他の妃とは一線を画した扱いを受けていました
DNA鑑定より、ツタンカーメンは孫でした

クレオパトラ
クレオパトラ7世(アレキサンダー時代の女性ファラオ)
「クレオパトラ」の名はギリシア語で「父の栄光」を意味する
「クレオパトラ」として浸透しているのは、このクレオパトラ7世の事です

クレオパトラ政権から外される(混乱と骨肉の争い)
父が死亡し、兄弟で最も年長のクレオパトラが弟のプトレマイオス13世と兄弟婚を行い共同で王位に就いた
クレオパトラは、ローマとの同盟が唯一エジプトの存続の道と考え、弟と齟齬をきたす
ガイウス・ユリウス・カエサル派とグナエウス・ポンペイウスら元老院派との間で内戦が勃発した
ローマからの独立を標榜するプトレマイオス13世派は、クレオパトラを東部国境へと追いやった

クレオパトラとカエサルとの出会い
カエサルは、ポンペイウス追討でエジプト入りした
クレオパトラは、自らを寝具袋にくるませ、カエサルのもとへ贈り物として届けさせた
クレオパトラはカエサルを魅了し、彼の愛人となった
プトレマイオス13世側は、カエサル軍を攻撃したが、カエサルに制圧された
クレオパトラは、もう一人の弟プトレマイオス14世と結婚し共同統治を再開

カエサル死後
プトレマイオス14世が死亡すると、クレオパトラは、幼いカエサリオンを共同統治者に指名した
アントニウスは、東方遠征を行ってアルメニア王国を攻撃して、国王を捕虜とした
アントニウスは、エジプトで凱旋式を挙行し、ローマ市民は失望した
オクタウィアヌスがアントニウスに宣戦布告し「ローマ対エジプト」という構図になる

クレオパトラの死
アントニウス派と、オクタウィアヌスが率いるローマ軍が、アクティウムで激突する
アントニウス派は、オクタウィアヌス軍に敗北を喫する
クレオパトラ死去の誤報に接したアントニウスは自殺を図る
クレオパトラは、オクタウィアヌスに屈することを拒み自殺した
イチジクに忍ばせていたコブラに身体(胸)を噛ませて自殺したとも伝えられている。
エジプトを征服したオクタウィアヌスは、エジプトをローマに編入して皇帝直轄地とした

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