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朱鷺の“人生七転び八起き”

本当を、知りたい 

2015年08月11日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

自分の価値観・世界観で見ている現実に対して、対処しようとするのが、私たちですが。「こうに決まっている」現実が主体になると、どうにも手が出せない自分がいるような心境になってしまいそうです。私たちは、外界から「自分」を分離させどんどんと守備範囲を狭くしていきます。そのほうが・・・楽ですからね。「これは、自分には関わりない」と決めたら責任はない。出来なくても叱られない。楽な方へ〜楽な方へ〜と。精一杯。自分の出来る限り・・・を、やらないと自分(いのち)に対する尊敬の念も生じないんじゃないかな。自分自身に対して「どうせ、こんなもんです」と常にダメ出し。これは、他者に対する見下しにもつながってきますね。そうやって「こうに違いない」と思い込む。「その人」の本当を見ない。世界の本当に触れない。そこには・・・愛は、ない?絶望は・・・もう逃げ場はない。とハラを決めるような心境・・ 考えているときは、ソコにいませんね。 過去にいたり、未来にいたり。今にいない。 「過去のせい」にしたり。「未来の不安」を持ってきたり。 そんな思考のシステムに乗ってしまうのは 何事も、なんとなく、なにもかも「他人ごと」にしてしまうから? それがある意味「直面していない」ということになるんじゃ? 似たようなもので言うと 「みんな、そうじゃない? そうなるしかないじゃない」とか 「生活していくには、そうするしかない」とか。 即座に「○○のせい、○○が悪い!!」と言い訳したがる。 山ほどのエトセトラ でもそうしている自分に絶望したとき、幻にすがりつくことが出来なくなる。 何かのせいにして、逃げるが出来ない。 真正面に「自分のこと」になる。 自分のことだから、手をつけることができる。 本気でそれを、そのまま、自分のことだ。でしょうから。 それでやっと、逃げる、見ない、差し替える・・・が、終わる。 「これまでのやり方」のズルサとか、間違いに気付く というか〜 で、なにが私を動かしているかというと本当のことを知りたい。のだね。本当は、どうなの? なんなの?誰かがこう言っているなんて、関係ない。そんなのは意味がない。

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