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引越し好きの聖武天皇 

2015年08月09日 外部ブログ記事
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聖武天皇創立の恭仁京跡散策

古代の都は、天皇の住居と執政の施設が置かれた宮域と、京域から構成された
京域は、碁盤の目状に道路が設けられた都市空間です
恭仁京は、現在の加茂町内に半分、木津町他に半分が設けられました












聖武天皇(ネットより引用)

聖武天皇は、頻繁に遷都する
遷都「恭仁京」(741年〜)「難波宮」(744年〜)「紫香楽宮」(745年)
人臣には不評で、「紫香楽宮」は、奈良へ帰りたい臣下達により放火されました?
聖武天皇は、優柔不断、情緒不安定とも評されています?

聖武天皇の思いつきの諸政策
「遷都」「国分寺・尼寺の建設」「大仏建立」は、国家予算の窮乏をもたらす
民にとり、農作業とは異なった不毛な生産労働の提供でした
宮城、大仏殿の造営では、巨木を伐採するので、森林破壊に至りました
河川の氾濫、山崩等「自然災害」結果、飢饉をつくりだす

恭仁大橋近くの「古代史の碑」(万葉の碑?)
田園風景に日本の都があっったとは信じがたい場所です
恭仁小学校の木造校舎は、憂いと・興味を引きます
小学校の裏に大極殿跡がありました

山城国分寺跡(恭仁宮跡)の説明板
恭仁京は、奈良時代に聖武天皇によって造られた都です
奈良の平城京を離れ、数回の行幸で、加茂町を中心に新都を定めました
恭仁宮域は、難波宮への遷都後、山城国分寺として再利用されました
山城国分寺は、南北約330m、東西約300mの寺域をもつ寺でした
基壇跡や礎石跡から考慮すると七重塔もありました
 

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