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わさおの俳句教室日誌・「吟行。その2」〜15.06.24分 

2015年07月15日 ナビトモブログ記事
テーマ:俳句教室

歴史にはレバもタラもない。実際に起こった事実があるだけだ。それはそうなのだが、不遇のうちに生涯を閉じた天才のことを想えば、レバ、タラを考えてしまう。

 その最たるものは、石川啄木だ。有り余る才能の持主である、この天才は、1886年(明治19年)2月に生まれ、1912年(明治45年)4月に没している。わずか26年間の生涯である。

 石川啄木の生き方については、様々に論評する向きがあるようだ。しかし、啄木は、人生五十年時代を生きた中での26年間の生涯とはいえ、26歳は、いかにも若い。

 だから、彼の人生は可哀そうであるし、啄木が実際の1886年(明治19年)生まれよりも、100年後、つまり1986年(昭和61年)に生まれていれば、と考えてしまうのだ。

 1986年(昭和61年)生まれだと、啄木は、今、29歳である。であれば、啄木は、時代の寵児となる。啄木が歌を歌うのかどうか、それが上手いのかどうか分からない。が、歌うのが上手ければ、福山雅治をはるかに凌駕するシンガーソングライターとなる。

 歌うのが上手くなくても、歌人、詩人、作詞家としてもてはやされる。いずれにしても、年間に何億円も稼げるのは間違いない。

 
 漂泊の詩人、石川啄木は、北海道函館市の立待岬に眠っている。岩手県生まれの啄木がなぜ函館なのか。

 
 函館市公式観光情報サイトはこぶらは、「石川啄木と函館の幸せな132日間」と題して曰く。便宜上、番号を付す。
 

@ 2011年は石川啄木の百回忌にあたる年です。啄木が21歳の年、明治40年5月5日から9月13日の132日間を過ごした函館は、啄木にとって特別な存在だったと言われます。

A 啄木は、故郷・岩手県渋民を「石をもて追はるるごと」に旅立ち、青森から青函連絡船で函館入りします。

B 才能ある文学仲間(大島経男、吉野章三、岩崎正など)から歓待されて切磋琢磨し、金銭的な援助者(宮崎郁雨)も得るなど、安定的な人間関係に恵まれたのも、函館のいい思い出となったことでしょう。

C 啄木が函館のことを詠んだ歌は、明らかにわかるもので60首あまり。これは故郷渋民に2番目の数で、釧路31首、小樽19首、札幌・旭川各4首をはるかにしのいでいます。


 津軽のシニアブロガー、わさおは、最近、俳句教室に参加するようになった。その俳句教室の吟行が2015年6月24日に青森市にある合浦公園(がっぽこうえん)で行われた。

 青森県の地形は、太平洋に面する下北半島、日本海に面する津軽半島に挟まれ、間に陸奥湾が位置する。合浦公園は、陸奥湾に面する海浜公園である。

 その合浦公園には、石川啄木の歌碑がある。そこには、次の歌が刻まれている。

 船に酔ひてやさしくなれる いもうとの眼見ゆ 津軽の海を思へば

 石川啄木が妹の光子と共に津軽海峡を渡ったのは、1907年(明治40年)5月5日のことであった。この時、荒れる海で、光子は、船酔いに苦しむ。啄木は、妹を介抱する一方で、絶え間ない荒波に、前途に言い知れぬ不安を感じていた。

 石川啄木の26年間という短い生涯。その中で、函館で過ごした、たったの132日間が一番幸せだったという。このことを考えると、天才歌人、石川啄木のことが、そして彼の人生が、悲しくなる。

 合浦公園に建てられている石川啄木の歌碑は、啄木の「いもうとの眼見ゆ」の光子さん本人によって揮毫されたものであるという。

 石川啄木はもとより、妹の光子さんも、みんな、今はいない。合浦公園の歌碑だけが、一番幸せだった函館の彼方を望むように、今日も佇んでいるだけである。

 吟行の際、 わさおが詠んだ一句を以下に掲げる。


 わさお作

  啄木碑 函館望む 夏の海



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