メニュー

最新の記事

一覧を見る>>

テーマ

カレンダー

月別

平成の虚無僧一路の日記

明暗寺はなぜ興国寺を親寺としたのか 

2015年05月02日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



 さて、京都所司代板倉周防守重宗の特別のはからいで
妙法院門跡の一画に土地を借り、「妙安寺」を建てて
住むこととなった「淵月了源」の素性について、何も記録は
ないが、私は勝手に次のように推理してみた。
 
「淵月了源の申し伝え」という書が、尺八都山流の家元
中尾都山氏宅に保管されているそうな。それによると、
「淵月」の後継「月山宗桂」は、1695年、「淵月の申し伝えにより」、
「淵月」の遺骨を、紀州由良の興国寺に分骨埋葬し、興国寺に
対して「明暗寺の本寺」となることを申請している。興国寺としては
この申し出を無視していたが、再三の要求に、しかるべき金を
受け取って末寺とした。しかし、興国寺の親寺、大本山「妙心寺」
から「虚無僧寺を末寺にするとは、いかなる理由か」と詰問を
受けている。これについて興国寺側からは「なんでも、その昔
関係があったようだが、文書が火事で焼けてしまって不明」と
回答している。
 
では「明暗寺」の二世「月山宗桂」は、なぜ妙法院の末寺とならず、
興国寺を親寺としたのか。
ここからは、私の勝手な推理ですが、「淵月了源」は、小田原北条家
の家臣で、氏直に従って高野山に入った300人の家臣団の一人だったのでは。
北条氏の家臣は北条早雲の第五子「幻庵」の影響で、みな尺八が吹けた。
そして氏直没後、彼らは浪人して興国寺に虚無僧となって隠れ住んだ。
しかし淺野氏が紀州に入封し、興国寺を再興した折、追い払われることに。
「胡乱なる虚無僧が多数住みついていたので追い払う」という記録があります。
それで、淵月は、紀州を離れ京都の白川のほとりに住んでいたところ、
京都所司代から、浪人詮議で呼び出しを受ける。彼は北条家の遺臣で
あったことから、所司代板倉重宗は同情し、彼の口利きで、妙法院の一画に
草庵を建ててもらい住むことになった。そして遺言で興国寺に分骨、埋葬
されることを願った。
「淵月」は、妙法院ではなく、なぜ「興国寺」を指名したのか。実は「興国寺」は
北条家と深いつながりがあったのです。興国寺は当初「西方寺」といい、
鎌倉北条氏のご家人「葛山氏」が「実朝」と「北条政子」の菩提を弔うために
建てた寺でした。北条早雲の子「幻庵」の母は葛山氏であり、「幻庵」は
葛山姓を名乗った時期もありました。
 
虚無僧研究会の会報「一音成仏」32号に詳述しております

>>元の記事・続きはこちら(外部のサイトに移動します)





この記事はナビトモではコメントを受け付けておりません

PR







掲載されている画像

    もっと見る

上部へ