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平成の虚無僧一路の日記

福沢諭吉は「侵略主義者か?」に答える。 

2015年04月09日 外部ブログ記事
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福沢諭吉は、明治18年(1885)『脱亜論』を書いて、清や朝鮮を見限ろうと考えた。http://ja.wikisource.org/wiki/%E8%84%B1%E4%BA%9C%E8%AB%96「…筆者からこの二国[清・朝鮮]をみれば、今の文明東進の情勢の中にあっては、
とても独立を維持する道はない。幸い国の中に志士が現れ、国の開明進歩の手始めに、
われらの明治維新のような政府の大改革を企て、政治を改めるとともに人心を一新するような
活動があれば、それはまた別である。もしそうならない場合は、今より数年たたぬうちに
亡国となり、その国土は世界の文明諸国に分割されることは、一点の疑いもない」。
(以下略)
福沢諭吉は決してアジアを蔑視してこの文章を記したのではない。福沢は壬午事変の後、
朝鮮独立を目指す金玉均らに対し、惜しみなく指導をし、援助を与えてきたのであるが、
再三裏切られ、もうこの2つの国は見放すしかない。このままでは、欧米から、日本も
中国や韓国と同じ、民度の低い国とあなどられ、わが国まで欧米の侵略を受ける怖れが
ある。「日本は中国や韓国とは違う」ということを世界に知らしむるべし。
それが「脱アジア論」の主旨なのである。
 
福沢諭吉の思想の根幹は、「人も国家も 独立自尊」。独立の気概無き国は滅びる。
当時の朝鮮は、中国の属国であり、朝鮮王朝は 法治国家としての体面も気概も無く、
派閥争いに終始して、中国に就くか、ロシアに就くかの内紛状態にあった。
「閔妃」は朝鮮王朝の「高宗」の妃。「高宗」の父「大院君」と激しく対立し、
ロシアの援助を得てクーデターを画策していた。ロシアはこの機に乗じて、
朝鮮半島を植民地にしようとしていた。日本としては、ロシアの浸出はなんとしても
防ぎたい。だが、朝鮮王朝は、そのような大局的な見方ができず、派閥争いに
終始していた。「内政外交にも疎い、そんな王朝なら、滅びた方が、朝鮮の民に
とっては幸せである」と、福沢諭吉は言いきったのである。
 
尚、

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